
ワシントン・モニュメントは、エレベータを利用して最上部にある展望台まで行くことができます。チケットを入手する必要がありますが、無料です。展望台の窓からは、ワシントンDCの東西南北をすっかり見ることができます。ホワイトハウスを上から見下ろすのは、なかなか愉快なものです。

奥日光の刈込湖は、三岳の北側の静かな山の中にある小さな湖だ。三岳溶岩ドームが5000年ほど前に出現したときに谷をせき止めてつくった。湖の北岸には、榛名山から6世紀に飛来した伊香保軽石がつくる渚がある。左写真の山は、山王帽子山(手前)と太郎山。どちらも第四紀の火山である。

2004年9月1日の山火事を起こした火山弾とクレーター。2008年8月15日撮影。

4年前に山火事を経験した山肌に、クロマメノキ、ミネズオウ、ガンコウランが旺盛に繁殖している。2年前はクロマメノキばかりだったが、ミネズオウとガンコウランも復活した。群落の緑の隙間に、4年前の山火事で枯死した灰色の植物体がみえる。
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2年たった山火事現場

鬼押出しは浅間山の1783年8月噴火で山頂火口から北側に流出した安山岩溶岩である。この溶岩は同じ火口から軽石を放出する爆発と平行して流れ出したから、表面に赤い軽石を多数のせている(スコリアラフト)。赤い軽石にじゃまされるから、鬼押出しで安山岩溶岩固有の表面構造を観察することは難しい。
安山岩溶岩の表面構造として典型的なブロック溶岩は、浅間園Dコースの北西隅(地点55)で見ることができる。ここは、鬼押出し溶岩が柳井沼の窪地に流れ込んだ場所に当たる。急勾配のために溶岩流の表面が破けて、内側で流動していた水飴状部分が現れた。地表に現れるやいなや水飴状部分は大気に放熱して固まろうとする。しかし急勾配のために移動は継続するから、固まりつつ割れて、大小のブロックが累々と積み重なった。
![img[9]](http://blog-imgs-30.fc2.com/p/r/i/pringles/20080806073943s.jpg)
浅間山の立体模型(60センチ、群馬大学と数理設計研究所の共同作成)を、浅間中腹の火山館に8月9日から展示します。火山館は、登山口と浅間山頂のほぼ中間に位置する休憩施設です。登山者のほとんどがここでひと息つく場所です。そこで立体模型をみて、いままで歩いてきた道とこれから歩く道をよく確認ください。森の中を歩くのも楽しいですが、鳥になった気分で山全体を俯瞰するのも楽しいものです。
浅間火山の山頂地質マップ (NECO NO MORI workshop作成) も同時に展示します。展示はA1サイズですが、持ち帰り用にA4サイズも用意しました。山道を歩きながら使ってください。
【“浅間山の立体模型と登山用地質図”の続きを読む】

北海道中央部の美瑛。大きく波打つ丘が見渡す限り広がる。麦畑や牧草地として利用される何の変哲もない土地だったが、数十年前にカラー写真で紹介されて以来、よく知られるようになった。いまは、日本離れしたこの大陸的な景観をひと目見ようと、大勢の観光客が毎日押し寄せる。
この丘の景観は、120万年前に流れ広がった十勝火砕流の平坦表面が氷期のきびしい気候のもと、凍結融解を何度も繰り返したことによってできた。日本の他火山の火砕流堆積面でも多少の丘は見られるが、ここ美瑛は北海道の内陸部にあって寒冷の差が大きく、さらに120万年前という古い火砕流のためにその効果が顕著にあらわれた。
大きく波打つ丘をつくった凍結融解作用を詳しく説明しよう。氷期には、この地域の地表から植物が消えた。裸になった地表は毎朝凍結して霜柱をつくった。霜柱は地表面から垂直に持ち上がる。地表面が少しでも傾いていると、持ち上げられた砂粒は日射を受けて霜柱が融けるとき鉛直に落下する。こうして地表の砂粒は毎日ほんの少しだけ斜面を下方に移動する。これが何回も繰り返されて、大きく波打つ丘ができた。つまり、この美しい景観をつくったのは霜柱だといってよい。

富良野のラベンダー畑の波打ち部分も、このプロセスでつくられた地形だ。
大きな地図で見る浅間山の天明三年噴火を書いた文字記録は日本各地に存在します。それを、グーグルマップを使って整理しました。

草津白根山の標高2100メートルにある湯釜は強酸性のお湯をたたえる火口湖である。水深は30メートル余と浅い。湖底には溶融硫黄が存在し、中空の小硫黄球がそこから湧き上がって水面を漂う。
湯釜は、1882年から1983年までの101年間に、
水蒸気爆発を何度も繰り返した。今後も繰り返すと思われる。湯釜の水蒸気爆発は、岩石を四方に放出するとともに灰色の粘土を風下に降らせる。火口縁にはそうして噴出した粘土と岩石が厚く堆積している。左の写真の最上部に写っている白色粘土は1939年4月24日12時20分の爆発で降り積もった。
爆発によって火口から飛び出した岩石は放物線を描いて、1983年11月の爆発でも、0.7キロ遠まで達した。20世紀前半の爆発では、多数の岩石が2.5キロ遠まで達したとみられる。万座温泉にあるいくつかのホテルはその射程距離内に立地している。

前橋の中心部に坂下というバス停がある。向こうに見える歩道橋は国道50号に架かるが、それは坂の上にある。そこからこちらに向かって歩くと、横断歩道までの間に2メートルほどの坂を下る。ちょうど横断歩道を渡り終えた男性の頭の少し上に、国道50号の路面が見える。
2万4300年前に浅間山が突然崩れて、吾妻川から利根川に入った塚原土石なだれが前橋台地をつくった。歩道橋の向こうにはケヤキ並木が前橋駅まで続く。それは前橋台地の上にある。坂下バス停は、この前橋台地を利根川が削ってつくった坂を下り終わったところに位置する。坂下の北側に広がる平地を、前橋台地と対照して、広瀬川低地帯と呼ぶ。利根川は1000年前まで広瀬川低地帯を流れて伊勢崎に直行していた。
黒点と黒棒は、818年地震による地割れを示す。
榛名渋川噴火の堆積物がみえる工事現場の崖を精査しました。場所は前橋市立勝山小学校の北、
新田町階段の下です。

表面を削ってよく観察しましたが、熱雲の堆積物はここまで届いていないようにみえます。

基底の火山灰が特徴的な小豆色がをしています(左)。その上に、還元状態を示す青色も認められます(右)。青色の下、小豆色の上の砂層は熱雲の堆積物である疑いが若干残りますが、おそらく違うだろうと思います。

渋川火山灰の下に120センチのクロボクを挟んで、厚さ15センチの黄色い軽石が挟まれています。軽石の最大粒径は2センチです。軽石の粒を割ってみると、浅間山の1783年軽石とよく似ています。これも浅間山の軽石で、総社軽石と呼ばれています。クロボクの中に挟まれていますから、その年代はちょうど1万年前ころだと思われます。
前橋市内を流れる利根川の西岸に地層を露出する崖がいくつかあります。きょうは、中央大橋から上毛大橋までの区間のサイクリングロード沿いを観察しました。まだ新緑が始まったばかりですから、観察可能です。来月になると葉に覆われてみにくくなるでしょう。

板鼻黄色軽石(YP)の上にカラフル火山灰がのっています。その上に平原火砕流堆積物から発生したラハールの堆積物がのっているようです。利根川でこの時期のラハール堆積物をみたのは初めてです。

大渡自動車教習所脇の川原に赤岩がまだありました。この赤岩は1996年に群馬大学生が発見して
記録しました。赤岩は、塚原土石なだれの中にみられる特徴的な岩石です。黒斑山(古い浅間山)の心棒をつくっていた岩石です。

クロボクの上にのる白い地層は、牛池川ラハールと呼ばれます。9660年前に榛名東麓に発生しました。YPの下に塚原土石なだれの堆積物が見えています。

これは5世紀末に伊香保で起こった渋川噴火の堆積物だと思われます。いわゆるFA噴火です。基底に小豆色火山灰があり、その上にピンク〜青色の火山灰が層をなして積もっています。その中には葉の化石が含まれます。オレンジ色の火山灰の上にはデイサイトの砂礫が重なります。これはラハールによる堆積物でしょう。この地点まで熱雲が達したかどうか、精査する必要があります。

上毛大橋は東に大きく傾いて利根川の上に架かっています。西側が東側より30メートルも高い。10メートル分は2万4300年前の塚原土石なだれ堆積物が東側では浸食されて失われたのに、西側では堆積当時のまま存在するからですが、残り20メートル分は2万0000年前に陣場土石なだれ堆積物がその上にのったからです。他の橋と上毛大橋東詰は利根川に架かっているが、上毛大橋西詰は榛名山に架かっていると言ってもよいでしょう。

横川の峠の湯は、桜が満開でした。中山道は、杉林の向こうに見える高い山(刎石山はねいしやま)の上に続きます。

つづら折りの急坂のあと、こんな道になります。足元に、刎石山の溶岩のかけらが散乱しています。

振り返ると、坂本宿。木に葉がついていないので、見通しよく観察できました。

刎石山の溶岩の断面です。柱状節理だという説明板がありますが、これはむしろ板状節理です。急斜面をギシギシ流れ下った溶岩に特徴的な構造です。

軽石が露出していました。一番上の白い軽石は1783年8月の天明噴火によるものです。1メートルほど積もっています。これだけ積もってもこの中山道は廃棄されませんでした。むしろ、ふかふかして膝にやさしく歩きやすくなって旅人に歓迎されたかもしれません。
富士山の800年噴火で足柄路を廃して箱根路を開いたは、黒い軽石が街道を埋めたからではなく、地震によるがけ崩れで通行困難になったからではなかろうか。古代人にとって、火山噴火と地震を峻別して記述するのは困難だったろうと思いますから。
峰の茶屋から、白糸の滝を経て、旧軽井沢に下る有料道路は以前は未舗装区間が多かったが、いまは走りやすくなった。片道300円だ。

白糸の滝。小浅間溶岩ドームが出現する直前にその火道から噴出した白糸軽石が5メートルほどの厚さで降り積もっている。その基底から水が白糸を垂らしたように流れ落ちている。この地域には、2万4300年前に塚原土石なだれが堆積したあと、広い平坦面が形成されて、そこかしこに水面が生じた。本州の脊梁にあたる場所の地形としては異例である。
浅間山から降り積もった軽石や火山灰は浅い水中で再堆積して、池の底にシルトや粘土層として堆積した。これが白糸の滝をつくる不透水層をつくっている。このシルト粘土層の間には板鼻褐色BP3軽石が挟まれている。2万0800年前に噴火した白糸軽石の上には、そのあと浅間山から何度も噴出した軽石や火山灰と、それの再堆積層(ロームとクロボク)が、20メートルほど積み重なっている。

滝と駐車場を結ぶ遊歩道の脇を小川が流れる。水流に洗われて、塚原土石なだれが運んだ火山角礫岩が川底に露出している。

駐車場の道路脇で、塚原土石なだれの堆積物の断面を観察することができる。赤く酸化した部分と還元状態の青い部分が、土石なだれの流下過程で複雑に入り混じった。
この地域の不思議な平坦面については、すでに、
二度上峠からみた浅間山(2006年3月25日)で、写真つきで言及しました。

竜返の滝は、一枚の厚い溶岩流の上にかかる。湯川の谷の中に、この溶岩がつくった台地が南北1000メートル、東西300メートルに渡って続いている。この溶岩は浅間山より古いが、東側の鼻曲山をつくる第三紀の地層より新しいと思われる。

小瀬温泉料金所を出てすぐの道路脇には、浅間山から降り積もった軽石が厚く露出している。1783年軽石は基底まで露出している。その下に、クロボクを挟んで、1108年スコリアがある。この写真では崩れ落ちた土砂に埋まっているが、土砂を取り除けば、その基底まで観察することができる。そして、もう一度クロボクを挟んで、3世紀末のC軽石まで確認することができる。

石尊山は溶岩ドームだと考えられてきた。しかし、その地形を仔細に見ると、溶岩ドームとしては不自然に感じられる。小浅間山や離山は、一点からマグマが地表に現れて、周囲に崖錐を形成しつつ高くなった溶岩ドームの特徴をよく残しているが、石尊山はそうはみえない。北西に伸びる尾根をもち、南東部に不自然なかたちで足を伸ばす。
石尊山が占める位置は黒斑山の裾野の一部にあたると考えておかしくない。塚原土石なだれを発生させた山体崩壊のときに崩れ残った部分なのではないか。少なくとも、北西に伸びる尾根と南東の足は黒斑山の一部だとみるのがよい。石尊山のピーク自体は、黒斑山の寄生火山として生じた溶岩ドームだった可能性が残る。
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