風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

鬼押出し横断、2014年5月31日

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鬼押出し溶岩の上に載る吾妻火砕流

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(左)鬼押出し溶岩の中央を流れ下る砂礫。鬼押出し溶岩より古い前掛山斜面が水流で移動した。
(右)山頂火口から放出された火山弾。火口縁の千トン岩が遠くに見える。

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(左)鬼押出し溶岩の西縁。情報に釜山スコリア丘の西端が見える。
(右)火山弾がつくったクレーターの地表には天明軽石が散乱している。
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鬼押出し溶岩と吾妻火砕流

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舞台溶岩の上の吾妻火砕流と鬼押出し溶岩

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吾妻火砕流の表面にはジャガイモのキタアカリに似た赤くて大きな軽石がたくさん見える。

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鬼押出し溶岩の上に吾妻火砕流が載っている。

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鬼押し出し溶岩を乗り越えて流れてきた吾妻火砕流の表面にジャガイモが列をつくる。

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浅間山1783年噴火の最近研究レビュー

安井・小屋口(1998、日大紀要)は、吾妻火砕流の主要部分が8月4日夕刻から始まったクライマックスのあとに流出したと考えた。前掛山の山腹に露出する軽石の最上部に複数の火砕流堆積物が挟まれていることを根拠にした。安井真也さんはいまもこう考えているのだろうか。その場合、8月4日午後に六里ヶ原へぬっと押し広がって樹木を焼いたと書く古記録をどう扱うのか。

古記録では、吾妻火砕流が8月4日午後で、軽石噴出のクライマックスがその夕刻から翌日未明までだったと読める。これは荒牧さんの時代から知られていた。それなのに、軽石→火砕流の順番が頑なに信じられてきた。その理由は何か。古記録より野外での層序を優先した結果だろうか。

峰の茶屋の東大火山観測所構内に露出する軽石の中央部とそのすぐ下にオレンジ色の火山灰が3、4枚挟まれている。それらが吾妻火砕流から噴き上がった灰かぐらが風下のここに降り積もったものだと初めて解釈したのは、たぶん私だ。軽石の上半分が8月4日夕刻から始まったクライマックスの堆積物だから、この解釈は古記録の記述とよく合致する。

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鬼押出し溶岩の上に載る吾妻火砕流

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廃道を進んで、鬼押出し溶岩(右)と舞台溶岩(左)がつくる隘路をくぐり抜けると、鬼押出し溶岩の上に立つことができる。

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クロマメノキが群生する平坦面は、鬼押出し溶岩の上を覆った吾妻火砕流が残した堆積物だ。

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平滑面で囲まれた溶岩ブロックが累々と積み重なった上に、赤く酸化したスコリアからなる吾妻火砕流が7メートルほどの厚さで重なる。

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鬼押出し溶岩の西では1783年噴火をいまでも経験できる

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火山館から湯の平を越えて、鬼押出し溶岩の西側地域を調査しました。ここには、山頂火口から226年前に流出した溶岩の地形がそのまま残っています。当時の噴火をダイナミックに想像することができる稀有な場所です。

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2007年7月に印刷した2万5000分の1地質図には、鬼押出し溶岩の西側に吾妻火砕流の領域を細長く設けました。溶岩樹型にあるのだからここにあるはずという論理でした。行ってみたら、標高2105メートル地点に確かにありました。

鬼押出し溶岩に沿って細く分布することも確かめました。300メートル西に移動すると、特徴的な黄色岩片がたくさんまじる1783年軽石が地表に露出します。峰の茶屋に軽石断面で、吾妻火砕流の層位を示すピンク色火山灰の下に露出する部分です。つまり、ここの地表は吾妻火砕流に覆われなかったことがわかります。

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釜山スコリア丘が鬼押出し溶岩に破壊されて東西に分断されたように地質図では表現しました。山頂火口から流れ出したばかりの鬼押出し溶岩の流れ中央部にも高まりがあって、それも釜山スコリア丘の残がいだと思っていました。しかしよく観察すると、それらは既存の前掛山凸部だと思われます。巨大なスコリアラフトには見えません。古い溶岩のように見えます。ここを鬼押出し溶岩が通過したのは確かですが、急斜面のためここに留まることなくすべて流れ下ってしまったようです。地質図を改訂します。

鬼押出しでブロック溶岩を観察する

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鬼押出しは浅間山の1783年8月噴火で山頂火口から北側に流出した安山岩溶岩である。この溶岩は同じ火口から軽石を放出する爆発と平行して流れ出したから、表面に赤い軽石を多数のせている(スコリアラフト)。赤い軽石にじゃまされるから、鬼押出しで安山岩溶岩固有の表面構造を観察することは難しい。

安山岩溶岩の表面構造として典型的なブロック溶岩は、浅間園Dコースの北西隅(地点55)で見ることができる。ここは、鬼押出し溶岩が柳井沼の窪地に流れ込んだ場所に当たる。急勾配のために溶岩流の表面が破けて、内側で流動していた水飴状部分が現れた。地表に現れるやいなや水飴状部分は大気に放熱して固まろうとする。しかし急勾配のために移動は継続するから、固まりつつ割れて、大小のブロックが累々と積み重なった。

天明三年噴火記録をグーグルマップで


大きな地図で見る
浅間山の天明三年噴火を書いた文字記録は日本各地に存在します。それを、グーグルマップを使って整理しました。

1メートルの軽石に埋まっても中山道は残った



横川の峠の湯は、桜が満開でした。中山道は、杉林の向こうに見える高い山(刎石山はねいしやま)の上に続きます。

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つづら折りの急坂のあと、こんな道になります。足元に、刎石山の溶岩のかけらが散乱しています。

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振り返ると、坂本宿。木に葉がついていないので、見通しよく観察できました。

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刎石山の溶岩の断面です。柱状節理だという説明板がありますが、これはむしろ板状節理です。急斜面をギシギシ流れ下った溶岩に特徴的な構造です。

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軽石が露出していました。一番上の白い軽石は1783年8月の天明噴火によるものです。1メートルほど積もっています。これだけ積もってもこの中山道は廃棄されませんでした。むしろ、ふかふかして膝にやさしく歩きやすくなって旅人に歓迎されたかもしれません。

富士山の800年噴火で足柄路を廃して箱根路を開いたは、黒い軽石が街道を埋めたからではなく、地震によるがけ崩れで通行困難になったからではなかろうか。古代人にとって、火山噴火と地震を峻別して記述するのは困難だったろうと思いますから。

押切端の吾妻火砕流先端

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押切端の牧草地は1108年の追分火砕流の表面です。ここ(地点28)にくると水の流れる音がよく聞こえるのを知っていましたが、それは地蔵川に滝がかかっているからでした。

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この滝は吾妻火砕流がつくっています。1783年8月4日午後、吾妻火砕流が地蔵川に流れ込んで、狭い谷の中を進みました。そのあと地蔵川が、溶結した吾妻火砕流を削り取って滝をつくりました。滝の下からは河床が追分火砕流に変わりますが、左岸にはしばらく吾妻火砕流がつくった低い段丘が続きます。それは50メートルほどで終わります。そこが、ここ地蔵川における吾妻火砕流の先端です。7月に印刷した地質図は、吾妻火砕流のオレンジを地蔵川に沿って250メートルほど伸ばすべきです。

鬼押出し溶岩の水冷構造



浅間園火山博物館を訪れた人がまず最初に見る鬼押出し溶岩の塊には、顕著な水冷構造が観察できます。これは、安山岩溶岩としてはきわめて異常です。この異常が、安山岩溶岩の代表的みかけだと多くの観察者の脳裏に刻まれるとしたら、それはたいへん困ったことです。

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亀の甲らのようなこの水冷構造は、柳井沼の水によってつくられたと考えられます。

火山博物館の鬼押出し溶岩Dコース

 
赤いスコリアのまわりを溶岩がまんじゅうの皮のようにとりまいている。溶岩がスコリア丘を壊しつつ流れ下ったからだ。この構造は、鬼押出しが火口からスコリアを噴き上げつつ流れ出した溶岩であることを証明している。玄武岩溶岩にみられる溶岩ボール(lava ball)と同じものだ。

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水冷されてできた亀甲割れ目を表面にもつ溶岩。柳井沼の水と接触したことを思わせる。

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見晴台から見た浅間山頂。スロープを観察すると、次がわかる。左右は前掛山の直線的斜面。落石がつくった。前掛山の上に釜山がちょこんとのっている。釜山の斜面は直線的でない。高温のため内部変形してつぶれている。鬼押出し溶岩は釜山を壊して流れ下っている。吾妻火砕流がその一部を覆う。

マグマが泡立つと軽石ができる



マグマが泡立って噴き出すと、軽石ができる。同じ軽石でも、噴火ごとにすべてみかけが違う。ひとを見分けることができるように、軽石も見分けることができる。浅間山の1108年軽石は黒いが、この1783年軽石は白い。

鬼押出し溶岩の流出を書いた史料

鬼押出し溶岩は8月5日の鎌原土石なだれのあと、天明噴火の最後の出来事として山頂火口から流出したと長い間考えられてきたが、そうではなく、8月2日から始まったプリニー式噴火と同時に山頂火口の北縁からあふれ出して北山腹を流れ下ったのだと思われる。そう考える状況根拠は次である。

・ 8月4日午後に発生した吾妻火砕流の流下方向に影響を与えている。
・ 表面にスコリアラフトをのせている。
・ 8月5日10時に発生した鎌原土石なだれの中に、鬼押出し溶岩から生じたと思われる黒岩が多数含まれている。
・ 前進する安山岩溶岩流の先端で爆発が起こった事例が他の火山で知られている。
・ 8月5日昼以後に書かれた史料に鬼押出し溶岩流出の目撃証言がない。

2006年10月、浅間山北麓の標高1730メートル付近にある鬼押出し溶岩の一角で、その表面をおおう吾妻火砕流の堆積物を発見した。そこには、吾妻火砕流だけでなくプリニー式軽石もみられる。この発見によって、8月4日午後には鬼押出し溶岩が北山腹に存在したことが、状況証拠によって推論されるに留まらず、事実として確認された。

豊富に残されている天明三年噴火史料の中に、鬼押出し溶岩の流出は本当にひとつも書かれていないのだろうか。8月5日以後の縛りを解いて、史料の中に鬼押出し溶岩と解釈できる記述がないか探してみよう。

8月5日(七月八日)未明、鎌原土石なだれ発生の数時間前、鎌原用水の源泉に泥が山のように湧き出していた、あるいは4メートルほども泥が湧き上がっているのを見たという報告がある。これこそが鬼押出し溶岩流出の目撃証言でなかろうか。江戸時代のひとに溶岩という概念はなかっただろうから、湯気を上げながらゆっくり前進する鬼押出し溶岩の先端を泥の山だと認識したとしてもおかしくない。

「神(鎌)原の用水ハ浅間の腰より来ル.七日晩流一円来す.村の長たる者不思議成事かな源を見んと八日の未明見に趣しに泥湧出つる事山の如し.見と斉しく飛鳥の如く立帰り村へ来ルと大音に、大変有家財も捨て逃よ逃よ(と)呼りて我家へ帰、取者もとりあへずあたり(近)辺を引連て高き山へ遁れて命恙なし。呼ばれたる家にて、何気違の有様逃てよくバ朝飯給て退くべしと油断する中、大浪天にみなぎり其はやき事一時に家も人も皆泥中のみくずニ成。」蓉藤庵『浅間山大変実記』萩原史料2.201


「七月初瀧原ノ者草刈ニ出テ谷地ヲ見候へハ谷地之泥二間斗涌あかり候。是ヲ見テ畏レ早速家財ヲ被仕廻立退候。」毛呂義郷『砂降候以後之記録』萩原史料3.141-142


その恐怖は、村人たちがただちに家財をまとめて立ち退くに十分だった。朝食をすませてから立ち退こうとした家族は泥に飲まれてしまったという。この逃げ遅れによる明暗は、大笹村名主黒岩長左衛門(大栄)が蜀山人に依頼して書かせた文章に盛り込まれた教訓を想起させる。

蜀山人記念碑(5.162-163)
信濃なるあさまかたけにたつ烟ハふるき歌にも見えてをちこちの人のしる所なり。いにし天明三のとし夏のはしめよりことになりはためきてほのほもえ上り、烟ハ東のそらになひきて灰砂をふらし、泥水をふき出し、同七月五日より八日にいたるまで夜昼のわかちもなく、ふもとの林ことごとくやけ、泥水ハ三里はかり隔りたる吾妻川にあふれゆきて凡二十里あまりの人家林田圃ハいふに及ばず、人馬の流死せしもの数をしらす。しかるに有かたきおほんめくみによりてやうやうもとの如くにたちかへるといえへとも、たつ烟ハさらにやます。いにし年この災をおそれて速にたちさりしものハからき命をたすかり、おそれすして止れるものはことごとく死亡せり。これより後にいたりて又も大きにやけ出んもはかりかたけれは、里人この碑をたてて後のいましめとなすことしかり。

富士のねの烟ハたたすなりぬれとあさまの山そとことハにみゆ

文化十三年丙子秋九月 蜀山人書
黒岩大栄建

釜山の形成位置と南斜面の熱変形

釜山は1783年の噴火で浅間山頂の前掛火口の中に生じた小火山です。底径1キロメートル、高さ100メートルです。中央に直径300メートルの火口が開いています。いまの浅間山の中心火口です。

釜山は前掛火口の中心から北側にずれた位置に生じました。そのため成長開始後まもなく北側斜面が前掛斜面と一致してしまい、北側への成長が阻まれました。釜山の北側火口縁は他の方角のようには高くなれませんでした。このために、1783年噴火のときにこの火口から発生した流れは、樽木の一番低い部分から水がこぼれ落ちるように、すべて北側へ向かいました。鬼押出し溶岩と吾妻火砕流です。

南側への成長は前掛火口原を越えることがありませんでした。釜山の南斜面と前掛山の南斜面はいまでも食い違っています。釜山の斜面は前掛火口原の上で終わっています。

釜山の南斜面は安息角(あんそくかく)の崖錐(がいすい)斜面だけで構成されているのではなく、標高2480メートル付近に緩斜面があります。


地図に赤く着色した部分です。これは、内部のまだ熱い岩石が堆積後に重力の作用でゆっくりと変形して生じた地形だと考えられます。内部変形によって南側へ移動した距離は100メートルほどです。

軽石も鬼押出し溶岩の上にのっている


鬼押出し溶岩の上には吾妻火砕流だけでなく、軽石ものっています。地表に露出しています。直径数センチ、大きいものを10センチを超えます。

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その接写。1783年軽石と同じ色と発泡形態です。この軽石が分布する地表の下にはかならず吾妻火砕流があるようです。したがって、これは1783年8月4日夜に降った軽石だと思われます。

ここは分布軸から離れていますが、火口中心からわずか2.1キロの距離ですから、高さ30キロの噴煙柱から時折こぼれ落ちた軽石だと解釈できます。
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