風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

峰の茶屋の1783年軽石と1108年スコリア


1783年軽石の下に、厚さ20センチのクロボクを挟んで、1108年スコリアが重なる。

P1030705.jpg
追分火砕流から降り積もった赤色火山灰の上面が浸食されて、その上にBスコリア上部が載っている。この浸食面に、中右記が書く4週間のギャップがある。これほど下まで見えたのは、ひさしぶりだ。いつも重機で掘ってくれる東大地震研究所に感謝。

P1030699.jpg
露頭全景。広くはない。同時に観察できるのは5-6人まで。

長径2メートルの追分キャベツ


北軽井沢小学校の南西の畑の中で追分火砕流の堆積物を採土していた事業は、ほぼ終了するようだ。埋め戻しが始まっていた。写真は、敷地の片隅に置かれた長径2メートルの追分キャベツ。いままで見た中で最大だ。

御代田の追分キャベツ

御代田町の浅間縄文ミュージアムは、追分火砕流の分布限界の上に建設されている。玄関脇の庭に、建設時に掘り出されたと思われる追分キャベツが積み上げられている。もっとも大きいものは直径1メートルに達する。

 IMGP4035.jpg
浅間山の地質図を初めてカラーで出版した八木貞助は、追分火砕流のことを追分火山弾流と呼んだ。追分キャベツはたしかに火山弾によく似た形態をしている。しかし空中を弾道軌道を描いて飛行した火山弾ではなく、火砕流によって運ばれたスコリアである。

押切端の森を流れる地蔵川

IMG_3772.jpg
1783年8月の浅間押しをギリギリ免れた押切端(おしぎっぱ)の森を流れる地蔵川。夏休みになると、この涼しい小川で子どもたちが水遊びに興じる。地蔵川は1108年8月の追分火砕流が残した地層の上を南から北に向かって流れる。地層の厚さは10メートルほど。河床は追分火砕流の中にほとんど留まるが、ふれあい広場の西の地点69では追分火砕流の基底(すなわち平安時代の地表面)を掘り込んで、カラフル火山灰まで達している。

蛇堀川を下った追分火砕流は小諸市加増まで達した

IMG_2561s.jpg
1108年8月30日の追分火砕流は、蛇堀川を下って小諸市加増(かます)まで達した。国道18号まであと100メートルだった。

 IMG_2540s.jpg 
小諸高校のグラウンド北東壁に露出する追分火砕流の堆積物。表面にひび割れをもつキャベツのような黒い火山岩塊がみつかる。これを追分キャベツと愛称する。

IMG_2555s.jpg
この地域には、追分キャベツを積み上げた立派な石垣が多い。南麓としてはめずらしい。

浅間山1108年噴火から900年

あけましておめでとうございます。
ことし2008年は、浅間山の1108年噴火からちょうど900年です。この区切りに注
目した記事が、毎日新聞京都に出ましたので紹介します。
京都百年紀:「源氏千年」に寄せて/1 辺境の異変に揺れた朝廷
火山学と日本史学を融合させたユニークな記事です。

浅間山の1108年噴火推移と宮中の出来事
8月29日(七月二十一日)  Bスコリア下部(高崎へ)
8月30日             追分火砕流(大笹と追分へ)
9月9日(八月三日)      鳥羽天皇即位。嘉承を天仁に改元
9月26日から10月11日まで(八月十八日から九月三日まで) Bスコリア上部(中之条へ)
10月13日(九月五日)    浅間山噴火による被害報告が上野国から京都に届く
10月31日(九月二十三日) 軒廊御卜

なおBスコリア上部が20年後の1128年の噴火だとする説は否定されます。
長秋記の大治四年二月十七日条

長秋記の大治四年二月十七日条

長秋記(ちょうしゅうき)は権中納言源師時(もろとき)の日記である。この日記の大治四年二月十七日(1129年3月9日)条の末尾に次のようにある。



増補史料大成16(臨川書店、昭和50年再版)をスキャンした。

「前年に灰砂が上野国に降ったことは紛れもない事実であるが、いまどのような状況にあるかの情報がない。税を免除するかどうかは天皇の裁断を仰ぐべきである」と書いている。これは、浅間山のBと呼ばれる噴火に関係する新しい史料だ。1989年に峰岸純夫さんが初めて論じ、そのあと早田勉さんが粕川テフラの噴火年代にこれを採用した。彼らは、大治四年(1129年)の1年前の大治三年(1128年)に浅間山が噴火したと考えた。

さて、Bと呼ばれる浅間山の噴火堆積物は、Bスコリア下部→追分火砕流→Bスコリア上部からなる。Bスコリア下部は1108年8月29日に前橋に降った。その報告は京都まで上がり、ときの権中納言藤原宗忠が上野国の惨状を中右記に詳しく書いた。その被害は、宮中で軒廊御卜(こんろうみうら)という占いを執り行ったほど中央が注目した大きなものだった。しかし次のBスコリア上部は、前橋にほとんど降らなかった。その分布軸は山間部の沼田に向かう。上野国の中心部は無事だったから、Bスコリア上部による被害が京都に知られることはなかっただろう。

したがって赤線を引いた部分は、1年前の1128年に(Bスコリア上部の)降灰があったことが紛れもない事実であるが、と読むのではなく、21年前の1108年に(Bスコリア下部の)降灰で大被害があったのは紛れもない事実であるが、と読むべきである。ここの前年は、去年ではなく過ぎ去った年の意味だ。もし1128年にも浅間山が大噴火してそれがよく知れ渡っていたのなら、その被害状況や税免除の記録がこれとは別にあるべきである。しかしそのような記述は、長秋記にも中右記にも殿暦にも知られていない。

この新史料を考慮しても、浅間山のBと呼ばれる噴火の推移解釈は変わらない。Bスコリア上部の噴火は1128年ではなく、1108年9月26日からの2週間ほどだった。その期間、中右記と殿暦によると、京都に太鼓のような音が東方から響き、早朝の東の空が甚だしく赤かった。Bスコリア下部と上部の時間差は20年ではなく4週間である。

謝辞:長秋記の読み方を高橋昌明さんと森田悌さんに教えていただきました。
 
【“長秋記の大治四年二月十七日条”の続きを読む】

上の舞台溶岩を覆う地層



Bスコリア上部の下に赤や黄色の火山灰があります。追分火砕流に付随する火山灰と似ています。上の舞台溶岩は追分火砕流より前に流出したのだろうか。

P1010698s.jpg

上の舞台溶岩の上には、溶結した吾妻火砕流(1783年)の立派な断面も確認できます。上の舞台溶岩の表面でひときわ目を引く赤くて丸い大小の岩塊は、上の舞台溶岩の一部ではなく、1783年8月4日に流れた吾妻火砕流が残した地層です。

上の舞台溶岩を覆うBスコリア上部



上の舞台溶岩の上には、Bスコリア上部がのっています。したがって、上の舞台溶岩は1108年9月26日にはすでにいまの場所にあったと思われます。

P1010250s.jpg

左側の斜面の接写です。黒と白からなる特徴的なBスコリア上部です。高温溶岩で下から加熱されたようにはみえません。上の舞台溶岩は1108年噴火の産物ではなく、もっと古いのかもしれません。これを確かめるには、Bスコリア上部の基底を掘り出して、そこに追分火砕流があるかどうかを確かめればよい。

押切端のカツラ

押切端にある王領地の森を、ブナを探して歩きました。大きなカツラをみつけましたが、ブナはみつかりませんでした。地蔵川の流域には、手付かずのすばらしい自然が残されています。


追分火砕流堆積面の起伏

平原火砕流や塚原土石なだれは、起伏に富んだ地形をすっかり埋め立てて平坦面をつくりました。追分火砕流は、それほど厚くもなく、かといって薄くもなく、10メートルほどの厚さで地形を覆いました。



だから、その表面は元の地形を反映して、これくらいの起伏があります。群高の牧草地

北軽井沢に広がった追分火砕流

北軽井沢の胡桃沢を埋めた追分火砕流が10メートル以上に厚さをもっていることは、知っていました。しかし、くりの木プラザから大学村にかけての平坦面をどれくらいの厚さで覆っているのかは、わかりませんでした。



北軽井沢小学校のそばの農地に掘られた穴です。8メートルほどの深さがありますが、追分火砕流の基底はみえません。想像していたよりずいぶん厚いことがわかりました。

IMGP1419s.jpg

追分火砕流の上にBスコリアの上半部がのっています。火砕流とスコリアの間には、さまざまな程度に赤味を帯びて成層した火山灰が挟まれています。近所の追分火砕流堆積物が二次爆発して降り積もった火山灰だと思われます。横なぐり噴煙からの堆積物と見られる部分もあります。

この場所のように火砕流堆積物の上面がそのまま保存されていることは、めったにありません。ふつうは噴火後すみやかに水流によって洗い流されてしまいます。この場所は、4週間後にBスコリア上部によって被覆されたために浸食されずに残りました

押切端の明るい森

地蔵川の上流域には押切端(おしぎっぱ)の森が広がっています。1783年噴火のクライマックスの前日(8月4日)、浅間山頂火口からあふれだした吾妻火砕流が六里ヶ原に広がりました。吾妻火砕流の「押し」からかろうじて免れて焼け残った森、それが押切端の森です。

押切端の森は、1108年8月30日に山頂火口から流れてきた追分火砕流の上にあります。追分火砕流は谷を埋めて、ここに平坦な土地をつくり出しました。それからまだ900年しかたっていません。新しい谷である地蔵川の切り込みはまだ浅い。

1200メートルだからブナがあってもおかしくない標高なのですが、みつかりません。若い森だからでしょう。ミズナラ、コナラ、クリなどの落葉樹が薄い表土の中に根を広げています。でも、深いところまではなかなか根が張れません。根こそぎ倒れた木を森の中でよく見ます。

押切端は、たくさんの若くて細い木々で覆われています。ここは、うっそうとした森ではなく空が透けて見える明るい森です。この森の四季を描いた美しい絵本を紹介しましょう。

森のはるなつあきふゆ―オシギッパのもりでみつけた 森のはるなつあきふゆ―オシギッパのもりでみつけた
文・岸田 衿子、絵・古矢 一穂 (1994/12)
ポプラ社

地蔵川の追分火砕流

追分火砕流の堆積物を観察するのに適した場所をみつけました。地蔵川に沿う100メートルほどの砂利道です。近くを通行する自動車は舗装道路を走りますから、この砂利道には侵入してきません。安全に思う存分観察することができます。児童生徒の野外見学地点として最適です。バスは舗装道路と砂利道の交差点に停められます。

砂利道を歩くと、火砕流のみかけが徐々に変化していきます。基本的な特徴は保持しているものの、火砕流堆積物のみかけが場所によって変わることを実感することができます。砂利道が地蔵川を横切る地点で、堆積物をさわることもできます。



河床に露出するのは、嬬恋軽石を覆うカラフル火山灰(1万5900年前)。

P1010159s.jpg

溶結して箱型峡谷をなす。

追分キャベツを積み上げた石垣

軽井沢の別荘の石垣は、1108年の追分火砕流の中から掘り出されたパン皮岩塊をしばしば利用しています。



これは雲場池の近くの石垣です。見事な粒ぞろいです。浅間山の麓に展開する別荘地の石垣をつくるにまったくふさわしい資材です。火山学者は、このパン皮岩塊を追分キャベツと愛称しています。
次のページ

FC2Ad