風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

ドローンで撮影した黒岩


プリンスランドロータリー

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トギホリ石

C_NjPMqVYAAHXUv.jpgサンランド管理事務所

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こじはん石



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彼岸中日の鎌原観音堂

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よく晴れて暖かな彼岸中日。鎌原観音堂に旗が飾られた。

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江戸まで届いた鎌原熱泥流

利根川を下った鎌原熱泥流は、野田で江戸川に入って江戸まで届いた。たくさんの遺体が流れ着いた葛飾区と江戸川区のいくつかの寺に、供養塔がいまも残っている。

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葛飾柴又の帝釈天は大勢の観光客でにぎわう。ここは題経寺という大きなお寺だが、その宝生院に供養塔がある。北総線の新柴又駅のすぐ西側だ。葛飾区柴又5-9。碑面には天明三年七月十八日と刻まれている。災害からわずか10日後の日付だ。

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帝釈天から江戸川の堤に出ると、このような景色が広がっている。

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題経寺から3キロ下った江戸川区東小岩2-24の善養寺にも供養塔が残っている。江戸川病院のすぐ南。立派な枝振りの松がある寺だ。

坂東大橋の黒岩


本庄市と伊勢崎市を結ぶ国道462号にかかる坂東大橋から下流を見渡すと、本庄市側の河床に大きな岩がたくさん転がっているのがわかる。

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河原に下りると、その約半分が1783年8月5日に浅間山から発生して利根川を下った鎌原熱泥流が置き去りにした黒岩であることがわかる。黒岩は元は、その数日前に山頂火口から流れ出した鬼押出し溶岩だった。黒岩以外の大岩も鎌原熱泥流がここまで運んできたものだろう。

鎌原熱泥流は、それに転化する前の土石なだれも含めて、1490人を飲み込んだ。利根川の河幅が広がって流れがゆるくなるこのあたりに、多数の遺体が打ちあがったという。いま河床に転がる多数の黒岩が、当時の惨状を現代に伝えている。10年前はこのような景観だった。大河川の河床だからこの地点の地形変化は激しい。

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一番遠くにあるこの黒岩がもっとも大きくて1.5メートルほどあるが、あいにく中州にあって近づくことができない。

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伊勢崎市側の堤防に菜の花が満開だった。

中村の浅間石



長いことみつけられなかった「中村の浅間石」を、きょう偶然みつけました。渋川市民ゴルフ場の駐車場に移動復元されていました。利根川のすぐそばです。

浅間天明噴火の死者数は1492人

天明三年七月八日(1783年8月5日)に発生した鎌原岩なだれと、それから転化して吾妻川を下った熱泥流に巻き込まれて死亡した人の数を、これまで私は1400人と言ってきたが、よく調べたら1490人だったことがわかった。

大笹村名主だった黒岩長左衛門の『浅間山焼荒一件』(萩原史料2巻99-105)によると、翌天明四年七月、善光寺から受け取った経木を吾妻川の各村に死者の数ずつ配った。それを集計すると1490人になる。この数字は、幕府勘定吟味役だった根岸九郎左衛門『浅間山焼に付見分覚書』(萩原史料2巻332)の集計1124人とおおむね一致するが、根岸の集計にはない村が合計数を増やしている。

このほかに、前日(8月4日夕刻)軽井沢宿で、空から降ってきた焼石に当たって青年2人(丈次郎と寅之助)が死亡したから、天明噴火による死者合計は1492人になる。内訳は、群馬県1490人、長野県2人である。

長野原町川原畑の東宮遺跡



熱泥流堆積物の下から天明三年の屋敷が発掘されました。東宮(ひがしみや)遺跡といいます。きょうは現地説明会でした。馬屋や8個の桶が並ぶ離れなど、当時の生活をしのばせる興味深いものを見ることができました。風もなく暖かだったので、大勢のひとが見学に訪れていました。この遺跡の発掘は、来年度も継続するそうです。

遺跡の上にある岩山に掘られた三ツ堂の下まで熱泥流が来たという伝承があるそうです。山道を登ってみると、たしかに熱泥流の堆積物が山肌に貼り付いて地形面をつくっていました(白矢印)。

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遺跡から40メートルほど高いところに段丘があり、家が何軒かあります。これは2万4300年前の塚原土石なだれがつくった堆積面でしょう。2キロ上流の林集落が塚原土石なだれの堆積面の上にあることを確かめてあります。それと同じ面だと思われます。写真は、さらに奥にはいった工事現場です。層序は次の通り。

       カラフル火山灰
90センチ 嬬恋軽石
7センチ カラフル火山灰
80センチ ローム(白糸軽石まじり)
80センチ 塚原土石なだれ
       ローム

天めいの生死をわけた十五段

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鎌原観音堂に上がる石段には、赤い太鼓橋がかけられています。30年前、地下に続く石段を発掘したひとたちが掘った穴の上にかけた。観光客は、太鼓橋を渡って観音堂におまいりします。

いつもはこの太鼓橋の下をのぞきこんで地下に続く石段を確認しますが、5月の連休のあと、太鼓橋が突然なくなっていました。おかげで、30年前に掘った穴の両壁に積まれた石がよく観察できました。

1ヵ月後、きれいに朱に塗られた新しい太鼓橋が再びかけられていることを確認しました。

大きな柳井沼と地下水システムが鎌原土石なだれの原因か

柳井沼の基本地形は、1万5800年前の平原火砕流噴火の直後にできていた。そして、その大きさはいまの北に開いた馬蹄形凹地とほぼ同じくらい大きかったのではないか。

平安時代の1108年8月、追分火砕流がその大きな柳井沼の中に流れ込んだ。この噴火のあと、表面地形としての沼はずっと小さくなったが、浅間山からあふれ出す大量の水は、地下水として元の地表すなわち追分火砕流の堆積物基底をとうとうと流れ続けた。

江戸時代1783年までの675年間、この地下水システムはかろうじて安定を保っていたが、8月5日10時に鬼押出し溶岩の先端で起こった爆発をきっかけに、地下水面より上にあった追分火砕流の堆積物全体がそっくり北側にすべり落ちてしまった。これが、鎌原村を襲った土石なだれになった。つまり、鎌原土石なだれになった土塊の過半は、675年間準安定状態にあった追分火砕流の堆積物だった。

上記の推論(モデル)は、これまで野外で獲得された地質学的事実のどれとも矛盾しないし、いくつかの重要な特徴を説明する。

鎌原土石なだれが残した堆積物の断面には、クロボクやロームがパッチとしてたくさんみつかる。ロームはもちろんクロボクも、追分火砕流の下にあった地層だ。追分火砕流の上のクロボクは、まだ薄く10センチに達しないから、これに該当しない。北へ動き出した土塊が追分火砕流と平原火砕流の境界層(クロボク/ローム)を含んでいたことは間違いない。この境界層そのものがすべり面になったとみるのがもっともらしい。

鎌原土石なだれは「乾いていた」と強調されることがある。堆積物の断面にパッチワーク構造が認められるから確かにそうなのだが、とくに東側の地層断面で、じゃぶじゃぶの水とともに流れた痕跡も認められる。百度で沸騰した泥水の中に生じた小さなパイプ構造がしばしばみつかるのだ。鎌原土石なだれは、場所によってその流れの様式が大きく違っていた。それは、土塊の部分によって含水率が大きく違っていたことに起因すると考えるとうまく説明できる。

鎌原土石なだれがつくった三つのキプカ

鎌原土石なだれは、観音堂、向原、アテロの三ヵ所でキプカをつくりました。キプカはハワイの言葉で、溶岩に埋め残された土地のことをいいます。しばしば自然豊かな森に覆われていて、人々に安らぎを与えます。ユーカリの大木が生い茂るナマカニパイオ・キャンプ場は、キラウエア・カルデラの縁に残されたキプカです。

さて浅間山に戻りましょう。観音堂キプカは、石段を駆け上がった数十人が助かったことで有名です。向原キプカの境界は別荘地と集落の間にあり、その境界地形をいまでも明瞭に観察することができます。アテロキプカは、鎌原土石なだれの表面に成立した林の中を抜けて、谷をいったん降りて登ると、目の前に大きな流れ山と広いクロボク畑がつくる雄大な景観が突然現れることによって認識できます

これら三つのキプカは1783年災害を免れた土地ですが、これらの土地が、隣接する土地と比べて実際どれほど安全性なのか、私にはよくわかりません。調べれば調べるほど、鎌原土石なだれは稀な、住民の側からするとまったく不運な火山災害だったように思われます。この災害の再来を心配するのは愚かしいことのようにも思われます。

鎌原村を土石なだれが襲ったのは、1万5800年前に平原火砕流がその土地をつくってから初めての出来事でした。これほど稀な現象だったにもかかわらず、村人は階段を駆け上がろうと観音堂に向かいました。彼らは何を得ようとしたのでしょうか。高いところを目指せば生き延びられると思ったのでしょうか、それともただ観音様のおそばに寄ろうとしただけだったのでしょうか。

青山の浅間石



中之条盆地に「青山の浅間石」なるものがあることは以前から知っていましたが、きょう初めて現物を見ました。国道脇のセキチューの裏にある人家のそばの田んぼの一角にありました。

「このあたりに青山の浅間石というのがあるらしいのですが、知ってますか?」と国道を下校途中の小学女児に尋ねたら、「浅間石ですか。ふん。うちのそばにあります。こっち来て!」と、手招きしたあと、案内してくれました。田んぼ道をしばらく二人並んで歩きましたが、時節柄ひと目が気になりました。

目的地に着いて、浅間石の隣の家のご夫婦に詳しくお話を伺いました。田んぼもその家の所有だそうです。案内してくれた女児は隣の隣の家のお子さんでした。

整った形の流れ山



人工造形物かと思うくらい整った形の流れ山です。手前に池があるのもいい。鎌原土石なだれの上に展開する別荘団地の中でみつけました。

新発見の黒岩

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羽根尾変電所の黒岩。祀ってあります。右側手前は赤岩です。

東側に偏在する黒岩

鬼押出し溶岩の先端にある泉ヶ丘から始まって、嬬恋の里、プリンスランドを通って、そしてサンランドに至るライン上の地表に、多数の大きな黒岩がみつかります。このラインは、土石なだれの中心線から有意に東側に寄っています。

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これが、たぶんもっとも大きな黒岩です。上に別荘一軒とテニスコート一面がつくられています。50メートルくらいあります。全体を一枚の写真に収めるのはむずかしい。鬼押出し溶岩の先端

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塚本さんちの黒岩です。

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この場所に移動してきたとき、まだ柔らかかったことがよくわかります。大きな黒岩は、多かれ少なかれ、柔らかかった証拠をその外形と表面のひび割れに残しています。

これほど大量の柔らかい安山岩を供給するには、山頂火口から瞬間的に放出するメカニズムでは不可能だと思われます。そんなことをしたら、マグマは溶岩ではなく、よく発泡してみずからを粉砕して軽石になってしまいます。

2日前から鬼押出し溶岩として北山腹を下っていた高温岩体が供給源だったと考えれば、この困難は回避できます。

鎌原観音堂はギリギリだった

鎌原土石なだれは、従来から知られている小熊沢だけでなく高羽根沢と小宿川も下って吾妻川に出ました。鎌原土石なだれは吾妻川に流入する2キロ手前から、山麓全体を覆って流れることをやめました。下松原開拓、向原などの台地を避けました。それらはキプカとして残りました。

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92人が駆け上って助かったとされる鎌原観音堂は下松原開拓の台地の一部です。ここが土石なだれに飲み込まれなかったのは偶然だったと言ってよいでしょう。観音堂が土石なだれの災厄から完全に逃れられる安全な場所だったとは言えません。観音堂に駆け上がれば命が助かると彼らが思ったとしても、結果がたまたまよかっただけです。もう少し流れの勢いが強ければ、観音堂も飲み込まれるところでした。

向原と鎌原が同じ平原火砕流からなる台地なのに、後者が襲われて前者が襲われなかったのは、台地の高さの違いによります。鎌原は向原より30メートルほど低い。1万5900年前の平原火砕流噴火の直後に、吾妻川そばの火砕流堆積物から二次爆発が頻繁に起こりました。鎌原の火砕流堆積物の表層はそのとき大きく浸食されて失われました。200年前に起こった鎌原村の悲劇は1万5900年前のつけがもたらしたものだったのです。
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