風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

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空から見た吾妻川合流点の地形


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榛名山の噴火遺跡から古墳時代の武具を装着した人骨が出土

古墳時代の497年6月のある日、榛名山が1万年の静寂を破って突然噴火した。噴火地点は山頂ではなく、いまの伊香保温泉のすぐ上から。初めはあずき色の火山灰を降らせた。それが数日続いたあと、雲仙岳と同じような火砕流(熱雲といったほうがよい)が山腹を下った。

この熱雲に襲われた古墳時代の集落は、たとえば中筋遺跡でよく知られている。今回は、武具を装着したままの人骨が見つかったことが新しい。この噴火での人骨発見は初めてではなかろうか。今回の発掘は、古墳時代の人々がこの噴火にどのように遭遇したかを推し量ることができてたいへん興味深い。

イメージとしては、1991年6月3日、北上木場で火砕流にまきこまれた犠牲者の人骨が回収されないまま放置された。高温で焼かれたために腐敗しにくかった。数週間後、風や雨によって周囲の火山灰が寄せ集まって人骨を埋没させた、と思えばよい。

そのあと、25年の静寂が流れた。榛名山が再度噴火して厚さ2mの軽石が降り積もってこの地を覆った。軽石と熱雲の間には、25年の時間経過を示す厚さ5センチほどの黒土がある。厚さ2mの軽石に守られた人骨は1500年後の2012年11月、群馬県埋蔵文化財調査事業団の発掘調査によって発見された。


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榛名山の渋川噴火は497年

榛名山で古墳時代に起こった渋川噴火の年代を、大規模寺院建設現場の地下から出た3本の樹幹の放射性炭素含有量を測って、497年(+3年/-6年)と決めました。(株)パレオ・ラボとの共同研究です。もっとも太い樹幹は直径55センチ、長さ5メートルで、155年輪が数えられました。


・2009年5月16日幕張発表の予稿
・実際に発表で使ったパワーポイントから印刷したpdfファイル
・日経新聞2009年5月16日夕刊社会面に記事あり
・群馬大学教育学部紀要に論文を印刷しました。2015年3月



最外試料の年代として495年が得られました。試料は5年輪ごとに採取しましたから、最も外側の年輪は2年足して497年になります。(2014年3月注記)

5世紀末の熱雲は勝山小学校まで達しなかったようだ

榛名渋川噴火の堆積物がみえる工事現場の崖を精査しました。場所は前橋市立勝山小学校の北、新田町階段の下です。

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表面を削ってよく観察しましたが、熱雲の堆積物はここまで届いていないようにみえます。

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基底の火山灰が特徴的な小豆色がをしています(左)。その上に、還元状態を示す青色も認められます(右)。青色の下、小豆色の上の砂層は熱雲の堆積物である疑いが若干残りますが、おそらく違うだろうと思います。

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渋川火山灰の下に120センチのクロボクを挟んで、厚さ15センチの黄色い軽石が挟まれています。軽石の最大粒径は2センチです。軽石の粒を割ってみると、浅間山の1783年軽石とよく似ています。これも浅間山の軽石で、総社軽石と呼ばれています。クロボクの中に挟まれていますから、その年代はちょうど1万年前ころだと思われます。

榛名山の軽石で埋まった古墳時代の住居

榛名山の軽石で埋まった住居が、先月発掘されました。噴火は6世紀に起こりました。埋まった住居は古墳時代のものです。この地域での埋没住居発見は、黒井峰遺跡以来20年ぶりのことだそうです。



厚さ1メートルほどの軽石に埋まっていました。鯉沢バイパスと国道17号が交差する角の北西隅です。スーパーマーケット建設工事中に発見したそうです。

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冬用の竪穴式住居です。かまどと床下収納があります。この女性と世間話をしました。彼女は黒井峰発掘もやったそうです。「どうですか?むかしのひとは野蛮な生活をしていたと思いますか」と聞いたら、「いいえ、そんなことはない。昔の人の暮らしぶりはよかった。キッチンも冷蔵庫もあったのだから。」

渋川市を焼いた6世紀の噴火

榛名山は、6世紀に大きな噴火を2回しました。



最初の噴火の火口は伊香保温泉のすぐ上に開きました。熱雲が発生して吾妻川に達しました。図に破線で示してある「FAigの分布限界」が、その熱雲が焼き尽くした範囲です。北側の子持山麓ではよくわかっていますが、南側の市街地ではよくわかっていません。物証である地層がめったに保存されていないからです。中筋遺跡はこの噴火で埋没した遺跡です。

その20-30年後、南西隣に火口がもうひとつ開いて、軽石を空高く噴き上げました。南西の風に吹かれて、遠く仙台まで達しました。図に「FA400」などと書いてある一群の線がその軽石の厚さを示します。単位はセンチです。軽量骨材として採石されています。榛名軽石(はるなけいせき)といいます。黒井峰遺跡はこの軽石に埋まった遺跡です。二ツ岳溶岩ドームが火口に栓をして噴火が終わりました。

図の青色は、2万4300年前に塚原土石なだれがつくった利根川の段丘を示しています。利根川と吾妻川の両端崖も示しています。

最初の噴火で熱雲が焼き尽くした土地の上に、いま30万人のひとが住んでいます。この災害の詳細を知ることは考古学と地質学を駆使すればできますが、その災害研究の成果から教訓を導き出すことはたいへんむずかしいように思われます。

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