風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

調査計画

調査が必要な地点を書き出します。

1)大学村から南木山熊ノ内にかけて、塚原土石なだれ
2)狩宿の塚原土石なだれ
3)熊川下流に平原火砕流があるかどうか

4)吾妻川
5)袋倉の平原火砕流二次爆発
6)ブランニュー北軽井沢からアテロにかけて再調査
7)小熊沢に嬬恋湖成層があるかどうか
8)下松原開拓
9)高羽根沢
10)小屋が沢の再調査
11)溶岩樹型ふきんの吾妻火砕流
12)火山博物館の上

13)浅間牧場

むずかしいところが残っています。
これまでのように、行けば成果が上がるとは限らないだろう。

冬と春の境目

きのうまでのぽかぽか春の陽気とちがって、きょうは荒れています。

前橋は晴れていて9度あるのですが、強い北西の風とともに雪が舞っています。浅間山も榛名山も見えません。冬の中に隠れています。前橋が、ちょうど冬と春の境目にあたっているようです。

風が強くて空気がほこりっぽいので、洗濯物を家の中に取り込みました。しかしまだ3月ですから、この風はレスの堆積にたいして寄与しません。地表温度がまだ低くて湿っているから、土ぼこりはたいして舞い上がりません。

4月になって、高い太陽光線で地表が温まると乾燥して、きょうより弱い風でも大量のほこりが舞い上がります。そのとき、一年分のレスが堆積します。

この脆弱期間は、地表が緑に覆われる6月初旬まで続きます。4月5月の風が強い日は、前橋の人は外に出ずに家の中に留まって、これをやりすごします。

追分火砕流の分布がよくわかってきました



追分火砕流は北軽井沢に広がったあと、地蔵川に流入しました。甘楽第一と甘楽第二は、それぞれキプカです。平原火砕流と塚原土石なだれの境界は、熊川に沿ってあります。地蔵川との合流点より下流に平原火砕流があるかどうかは、まだ調査していません。

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大前の南、小屋が沢と大堀沢の間に広がる台地は平原火砕流がつくったものですが、追分火砕流がこの台地の上を広がって流れたことがわかりました。畑の土が追分火砕流だし、台地の西端近くに追分火砕流の堆積物が連続してあります。追分火砕流は大前と大笹の集落がのる段丘をつくったのですから、考えてみれば、何筋かの沢の中を下っただけでは量が足りません。

畑の土で地質を見分ける

畑の土をみると、その土地がいつのどんな噴火できたかを見分けることができます。特定の火砕流や土石なだれの分布限界を知る方法として有効でもあります。



鎌原土石なだれ。礫がたくさん混じっている。よく探すと、ガラス質の黒岩がみつかる。土はシルト分より砂分が多い。色は茶色。@万座鹿沢口駅裏の台地。

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追分火砕流。スコリアと礫がまじっている。色は青あるいは茶色。@北軽井沢。

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手前の青黒色が追分火砕流。向こうの褐色が平原火砕流。一枚の畑の中に地質境界があるのはめずらしい。大前駅裏の台地。

平原火砕流は、3月26日を見てください。しっとりした黒で、礫をほとんど含まず、砂分よりシルト分のほうが多い。この特徴は、平原火砕流の堆積物の特徴ではなく、その上を覆っている厚さ1メートルのクロボクの特徴です。畑の土がクロボクからできているのは、過去1万年間に浅間山からそこまで火砕流などの土砂が流れてこなかったことを意味します。

塚原土石なだれの表面も同じクロボクですが、流れ山の有無で平原火砕流と区別することができます。

流れ山の心棒



流れ山の中身がそっくり露出しています。中央に大きな溶岩がありますが、たくさんのひびが入っています。移動中に入ったのだと思われます。このひびが採石作業を容易にしているようです。塚原土石なだれの流れ山は、しばしば採石の対象になっています。

溶岩の左右には、火砕流堆積物がくっついています。まったく無関係の場所にあった地層が、土石なだれの流下過程でくっつきました。

長野原町立西中学校から地蔵川に下ったところ。

双子の流れ山



応桑の田通にある双子の流れ山。かたちがよく整っています。

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下小菅にある別の双子ですが、中間に家を建てて住んでいる人がいます。流れ山の斜面は耕作できないから林のまま残ります。風除け効果が期待できます。

溶結した追分火砕流を刻んだ峡谷



地蔵川にかかる甘楽の橋から、このような峡谷を観察することができます。平原火砕流の谷に流れ込んだ追分火砕流の堆積物を地蔵川が削り取りました。同様の地形を、胡桃沢川の1064メートル地点、二度上峠に向かう道が片蓋川を渡る地点でも見ることができます。

北軽井沢のカラフル火山灰(1)

1万5900年前の嬬恋軽石は、上下をよく成層した火山灰に挟まれています。新鮮な断面でその火山灰を観察すると、カラフルさに驚かされます。



北軽井沢の国道146号脇の谷頭に露出する火山灰です。この冬くずれた新しい断面のようです。

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北へ3キロはなれた大屋原第一に露出する同じ火山灰です。この断面は1992年からあるので状態はよくないですが、表面をねじり鎌ではがすと、色合いを観察することができます。色の順番は同じですが、層によって厚さが異なります。こちらのほうが厚い火山灰もあれば、北軽井沢のほうが厚い火山灰もあります。そのときの風向きに影響されたためでしょう。

この火山灰は浅間山の山頂火口から噴出したのではなく、平原火砕流の先端近くで起こった二次爆発を供給源とすると思われます。吾妻川や千曲川のそばでは、何十メートルも厚い地層に移り変わります。そこには、降り積もった火山灰だけでなく、横なぐり噴煙から堆積した火山灰も認められます。そこには、砂丘のような波打った地形が認められます。

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八木地質図と荒牧地質図



八木貞助の地質図(1936年)
・鬼押出し溶岩は、鎌原泥流に引き続き噴出した。
・吾妻火山弾流(火砕流)が古い時代の産物ではなく、最後の大噴火である1783年の産物であることをみいだした。

鬼押出熔岩 本熔岩は天明三年七月八日の午前十時過鎌原泥流に引続いて噴出したもので、其前日に噴出した吾妻火山弾流と共に、天明大爆発の最後の産物である。(104ページ)

吾妻火山弾 本火山弾流は是迄古期の噴出にかかるものと思って居たが、「浅間記」には天明三年噴火の條に左の記事が載って居る。「七日の申の刻頃浅間より少し押出し、南木の原にぬっと押広がり、二里四方許押散らして止まる」云々とあり、・・・(116ページ)

鎌原泥流 浅間山頂から伏瞰すると、鬼押出の黒紫色を呈する熔岩流の先端に当って、草野が其両側の緑色なるに比して、一層濃緑色を呈して居るのが目立つのである。此濃緑色の一帯が天明三年の大爆発の際に、鬼押出溶岩の先駆をなした俚俗「泥押」と称して居る最新噴出のものである。(118ページ)


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荒牧重雄の地質図(1968年、1993年)
・追分火砕流が南麓だけでなく北麓にも流れたことをみいだした。
・軽石流の噴火は2000年ほどの時間を隔てて2回起こった。
・応桑の流れ山地形は浅間山がつくったものではない(1968年)。

いま作成中の新しい地質図(2006年)
・1783年、鬼押出し溶岩は8月2日には山頂から流れ出していて、8月4日の吾妻火砕流の流路に影響を与えた。
・鎌原土石なだれは、鬼押出し溶岩の先端から8月5日に発生した。
・軽石流の大規模噴出は2回ではなく、1万5900年前の1回だけだった。
・応桑に展開する流れ山地形は、浅間山が2万4300年前に崩壊して発生した土石なだれが残した。それはBP2軽石噴火の直前に起こった。

平原火砕流台地の表土は、しっとり黒



鎌原と北軽井沢を結ぶ道路は、ここでだけ平原火砕流がつくった平坦面上を通過します。ここ以外はすべて、900年前の追分火砕流がつくった平坦面と、黒岩と流れ山が点在する200年前の鎌原土石なだれがつくった地面の上を通っています。

平原火砕流台地の上には、1万5900年間に堆積したレスが積もっています。その最上部1メートルはクロボクです。だから、平原火砕流の上に展開している牧草地の土壌は、例外なくしっとりした黒色をしています。

遠景は草津白根山です。

古滝火砕流はC軽石噴火のとき



古滝火砕流の上に厚さ8センチのクロボクを挟んで1108年の追分火砕流がのっています。このことから、両噴火の間には800年程度の時間が経過したことがわかります。

前橋・高崎地域の考古遺跡では、平安時代のBスコリアの下に古墳時代のC軽石みつかります。遺物との関係から、C軽石の年代は4世紀だと言われています。したがって古滝火砕流がC軽石の噴火の産物であることは、たいへんもっともらしいことです。

古滝火砕流は、よく酸化した赤い堆積物です。溶結しています。古滝周辺では追分火砕流にすっかり覆われてしまって、地形をつくっていません。

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吾妻火砕流の先端



赤川支流の谷頭部は、鎌原と北軽井沢を結ぶ道路からも見えます。この断面は左岸です。1108年の追分火砕流の上に、1783年の吾妻火砕流がのっています。

追分火砕流の中には、キャベツのようなかたちをしたスコリア塊がたくさん含まれています。ところどころ、高温ガスによって赤や黄に着色されています。

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吾妻火砕流は薄く、1メートルほどしかありませんが、溶結しています。上部は高温時に空中の酸素と結びついて酸化して赤くなっています。断面には直立した細いガスパイプが何本も見えます。吾妻火砕流は崖の右手に向かってしだいに薄くなり、やがて消滅します。

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吾妻火砕流と追分火砕流の間には、厚さ7センチのクロボクがあります。700年の時間が経過したことを示す物証です。

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道路反対側の別荘地の小川に露出した断面です。追分火砕流の上に、クロボク、白色軽石、赤色火山灰を挟んで、吾妻火砕流がのっています。ここでは溶結していません。

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40メートルも深い赤川支流が、道路の南側でこのような小川に変身するのは、900年前に追分火砕流が谷に流れ込んで埋め立てたからでしょう。現在の谷頭部は、谷地形をいったん埋めた追分火砕流の先端が、900年かけて後退した場所に当たると考えられます。

そして200年前に、吾妻火砕流が同じように低所を選んで流れてきて、ここで止まりました。

鎌原土石なだれが東側に500メートル拡大



鎌原土石なだれの西縁が予想していたよりずいぶん西側にあったことを3月19日に書きました。東縁もずいぶん東側にあることにきのう気づきました。3月15日の地質図とくらべてください。鎌原土石なだれの東縁は赤川にほぼ等しいと思っていましたが、そこより500メートルほど東にありました。

鎌原と北軽井沢を結ぶ道路沿いでは、読売バンガローまで達しています。その敷地内に流れ山があります。一方、その南東の別荘地内は平坦で、追分火砕流の上に薄い吾妻火砕流だけがのっています。鎌原土石なだれはこの別荘地まで達していません。

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こちらは、北側の別荘地です。急な坂の上にあるこの別荘の背後には深い谷があります。

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平原火砕流台地に切り込まれた深さ40メートルほどの谷です。この深い谷を赤川支流と呼ぶことにします。対岸は厚く堆積したクロボクを耕した牧草地になっていますが、こちらは、その上に鎌原土石なだれの堆積物がのっています。崩壊地で観察すると、その厚さは12メートルほどです。断面にはパッチワーク構造が確認できます。つまりこの別荘は鎌原土石なだれの東縁ぎりぎりに建っています。この別荘地内の地表に黒岩はほとんどみつかりませんが、流れ山はたくさんあります。

ここから2キロ下流の赤川合流点でついに東側に乗り上げた鎌原土石なだれは、ブランニュー北軽井沢別荘地の西端をかすめて小宿川に流れ込みました。小菅沢との合流点である小代(こよ)の段丘は鎌原土石なだれがつくったようにみえます。

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ブランニュー北軽井沢にあるこの別荘は、鎌原土石なだれのまさに東縁上に建っています。南側から見ています。右側の低い平坦面は平原火砕流の表面です。

ハイジの福寿草



きのうはたいへんよいお天気で、地質図作成がはかどりました。ランチに寄ったハイジの庭に福寿草が咲いていました。この場所には、先週まで雪が積もっていたと思います。

二度上峠からみた四阿山(3月25日)



浅間山の右手に四阿山がそびえています。右側斜面の上にパルコール嬬恋スキー場が展開しています。菅平は背後にあります。左側に真っ白な北アルプスがみえますが、どこが見えているのかまだ確認していません。

28万年前を最後に噴火をやめた死火山は、日本では、この程度の浸食地形をなします。深い谷がいくつか刻まれますが、スキーゲレンデができるくらいの広い平坦面も残ります。

山頂(2354メートル)の右3キロにあるピークは浦倉山です。スキーゴンドラの山頂駅がすぐそばにあります。二つのピークの間がほぼ平らなのは、向こう側に開いたカルデラが火山の中央にあるからです。

二度上峠からみた浅間山(3月25日)



高崎から国道406号を使って烏川を遡ると、最短ルートで北軽井沢に到達できます。そのときに越える峠が二度上峠です。眼下に浅間牧場の丘が広がり、その向こうに大きな浅間山が見えます。

浅間牧場の地質はよくわかっていません。位置から判断すると、塚原土石なだれが表層の10メートル以上をつくっていることが確かです。縁辺部に当たる浅間大滝の上流でパッチワーク構造を示す堆積物断面を確認することができますが、中心部は牧場とゴルフ場になっていて地層の露出が限られます。浅間山の風下にあたるため軽石や火山灰が厚く降り積もっていることも内部の地層の露出を妨げています。

ここは日本列島の脊梁です。向かって右に降った雨は利根川を流れて太平洋に出ます。向かって左に降った雨は信濃川を流れて日本海に出ます。脊梁がこのようななだらかな斜面で構成されているのは不思議です。

火砕流の流れ分け

吾妻火砕流が東西に流れ分けている事実は、それより先に鬼押出し溶岩が火口からもう流れ始めていたと考える強力な根拠となります。

同様のことを、追分火砕流についても考えています。追分火砕流は鎌原土石なだれの下にほとんどみつかりません。追分火砕流も、真北を避けて、東西に流れ分けたようにみえます。東に向かった流れは北軽井沢に、西へ向かった流れは大笹に達しましたが、その間に挟まれた鎌原や三原に追分火砕流はありません。平原火砕流や塚原土石なだれは、鎌原土石なだれの下にみつかります。追分火砕流が流れ下るとき、舞台溶岩が流下中で障壁になったのでしょうか。それとも、火山博物館のそばのいまは窪地になっている場所に小山があったのでしょうか。

鬼押出し溶岩の先端近くの藤原には、幅200メートル、長さ1200メートルの奇妙な曲がりくねった溝があります。追分火砕流の上に掘られているようです。

平原火砕流と塚原土石なだれは、北麓に一様に展開しています。行く手を障壁に阻まれたようにはみえません。

1783年噴火の直前の地形を知るためには、追分火砕流の分布を詳細に調べることが役に立つだろうと思われます。平安時代に追分火砕流が柳井沼を埋め立てなかった理由を解明する必要があります。

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流れ山と黒岩は別荘地に最適

鎌原土石なだれが通過した地表には流れ山や黒岩があって、平坦ではありません。集落や耕作地にするには不適当です。



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流れ山や黒岩をうまく利用してプライバシーを守り、居心地のよさそうな別荘がたくさんつくられています。

鎌原土石なだれの西側には流れ山が多い

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鎌原土石なだれの西縁は、かなり西側にありました。浅間ハイランド別荘地、パルコール嬬恋ゴルフ場、寿の郷別荘地は、すべて鎌原土石なだれの上にあります。そこには、多数の流れ山があります。大きな黒岩はみつかりません。この写真は、浅間ハイランド別荘地の入口で撮ったものです。

西側の追分火砕流との境界は、地表に流れ山があるかどうかで正確に決めることができました。

追分火砕流は小屋が沢も下った

小屋が沢を自動車道が二本横切ります。そのどちらでも、追分火砕流の堆積物を見ることができます。



これは北側の横断道路です。追分火砕流は、右岸にこのようなはっきりとした段丘を残しています。

大前駅裏にある追分火砕流の堆積物は、大笹に流れ込んで吾妻川を下ったのではなく、小屋が沢を細く長く下ったと思われます。 【“追分火砕流は小屋が沢も下った”の続きを読む】

細原開拓は平原火砕流の堆積面

浅間ハイランド、藤原、細原開拓、寿の郷、プリンスランドなどを調査しました。藤原の奥は積雪がまだ深かったので、後日に回しました。




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細原開拓は平原火砕流の堆積面でした。この一帯を嬬恋軽石が覆っています。その下に火砕流の堆積物が露出しています。

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南東の一角では、地表を薄く鎌原土石なだれが覆っています。土石なだれに特徴的なパッチワークが見えます。しかし鎌原土石なだれが、間にクロボクを挟まずに、ロームの上に直接のっているのが不思議です。地表を浸食したあとで堆積したのでしょうか。ロームの下には嬬恋軽石があります。

ここを流れた鎌原土石なだれは、700メートル先のグランナチュールまで到達したあと、高羽根沢に流れ込んだようです。

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五差路の南西側に等高線が閉じているのに気づいていましたが、行ってみると案の定、塚原土石なだれの流れ山でした。平原火砕流の埋め立てから逃れた地形です。五差路に立って、この流れ山から時計回りに二本目の道を進むと、別の流れ山の大きな断面を見ることができます。

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断面の下半分が土石なだれです。ここでもパッチワークが確認できます。

浅間山の新しい地質図(3月15日版)

現時点では、このような図ができています。



次の7つの要素で大部分が塗り分けられます。
・鎌原土石なだれ(200年前)
・吾妻火砕流(200年前)
・鬼押出し溶岩(200年前)
・追分火砕流(900年前)
・平原火砕流(1万5900年前)
・塚原土石なだれ(2万3900年前)
・嬬恋湖成層(20万年前)

塚原土石なだれの分布が従来考えられていたよりずっと広いことがわかりました。流れ山が、思わぬところでみつかります。平原火砕流の堆積表面としてはありえない地形です。

鎌原土石なだれは、北に開いた馬蹄形凹地から複数個所であふれ出しているようです。また、万座鹿沢口駅裏の大きな崖を下っていないようです。これらについては、現地で確認することが必要です。

まだ不明なところは次です。これらを明らかにするためには、時間をかけた現地調査が必要です。
・細原開拓の地形は塚原土石なだれではないか。
・吾妻火砕流の分布(溶岩樹型ふきん、火山博物館ふきん、鬼の泉水ふきん、そして押切場ふきん)

四阿山の的岩



鳥居峠から四阿山の山頂を目指して登ると、途中に的岩という大きな岩の壁が立ちはだかります。これはダイクです。地下の割れ目を水平に移動したマグマが固まってできました。山頂から放射状に伸びています。同様の放射ダイクは、的岩のほかにいくつかあります。

的岩の上には登ることができます。そこでは、すばらしい景色をひとり占めすることができます。

嬬恋のキャベツ畑

嬬恋村は高原キャベツで有名です。それは、吾妻川の源流を取り囲む高原に広がっています。四阿山、高峰高原、そして浅間山に囲まれた標高1000-1200メートルの平坦地です。ここには、広い空があります。

キャベツは、この高原の上に少しずつ降り積もった厚さ1メートルのクロボクの上でつくられています。浅間山北麓では、姥が原という地名がついています。



ただし、ここだけが例外で、900年前の追分火砕流の上でキャベツが作られています。900年ではクロボクは9センチほどしか積もりません。追分火砕流が残した堆積物も耕作されているとみられます。

長野原町の追分火砕流は牧草地になっています。2004年の噴火のあと「は~いキャベツ」で有名になった長野原町のキャベツ畑は、1万5900年前の平原火砕流の上にあります。

鎌原土石なだれの先端

鎌原土石なだれの堆積物先端がどうなっているのかは、ほとんど知られていません。



これは、サンランド別荘地の北端を南に向いて撮影した写真です。流れ山が点在する起伏のある地表は雑木林として放置されています。

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同じ場所から北側を向いて撮影してみましょう。こちらは平坦面です。農地やテニスコートとして利用されています。平原火砕流の堆積面です。人家の裏の小山は、塚原土石なだれの流れ山です。平原火砕流に埋め残されました。したがって、この撮影地点が鎌原土石なだれが及んだまさに先端だと判断できます。写真にうつっている人家は鎌原土石なだれに被災しなかったはずです。

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サンランドの管理事務所前の黒岩の周囲が伐採されて、すっかりきれいになっていました。

榛名山の軽石で埋まった古墳時代の住居

榛名山の軽石で埋まった住居が、先月発掘されました。噴火は6世紀に起こりました。埋まった住居は古墳時代のものです。この地域での埋没住居発見は、黒井峰遺跡以来20年ぶりのことだそうです。



厚さ1メートルほどの軽石に埋まっていました。鯉沢バイパスと国道17号が交差する角の北西隅です。スーパーマーケット建設工事中に発見したそうです。

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冬用の竪穴式住居です。かまどと床下収納があります。この女性と世間話をしました。彼女は黒井峰発掘もやったそうです。「どうですか?むかしのひとは野蛮な生活をしていたと思いますか」と聞いたら、「いいえ、そんなことはない。昔の人の暮らしぶりはよかった。キッチンも冷蔵庫もあったのだから。」

渋川市を焼いた6世紀の噴火

榛名山は、6世紀に大きな噴火を2回しました。



最初の噴火の火口は伊香保温泉のすぐ上に開きました。熱雲が発生して吾妻川に達しました。図に破線で示してある「FAigの分布限界」が、その熱雲が焼き尽くした範囲です。北側の子持山麓ではよくわかっていますが、南側の市街地ではよくわかっていません。物証である地層がめったに保存されていないからです。中筋遺跡はこの噴火で埋没した遺跡です。

その20-30年後、南西隣に火口がもうひとつ開いて、軽石を空高く噴き上げました。南西の風に吹かれて、遠く仙台まで達しました。図に「FA400」などと書いてある一群の線がその軽石の厚さを示します。単位はセンチです。軽量骨材として採石されています。榛名軽石(はるなけいせき)といいます。黒井峰遺跡はこの軽石に埋まった遺跡です。二ツ岳溶岩ドームが火口に栓をして噴火が終わりました。

図の青色は、2万4300年前に塚原土石なだれがつくった利根川の段丘を示しています。利根川と吾妻川の両端崖も示しています。

最初の噴火で熱雲が焼き尽くした土地の上に、いま30万人のひとが住んでいます。この災害の詳細を知ることは考古学と地質学を駆使すればできますが、その災害研究の成果から教訓を導き出すことはたいへんむずかしいように思われます。

軽井沢を焼き払った雲場熱雲

黒斑山が崩れた1700年後、いまから2万2600年前、軽井沢と中軽井沢の間で突然噴火が始まりました。熱雲が発生して軽井沢一帯を焼き払いました。高温の熱風から上昇したきのこ雲は南西からの風に流されて、榛名山の上空に達し、そこに黒雲母を含む火山灰を降らしました。最後に、火口を溶岩ドームが埋めて噴火が終わりました。離山です。図では、オレンジ色が熱雲が焼き払った範囲、緑色が火山灰が降った範囲です。



その1600年後、2万1000年前に峰の茶屋から噴火が始まりました。今度は軽石をバラバラと、やはり榛名山の上に降らしました。白糸の滝に露出する軽石がそれです。小浅間山溶岩ドームが火口に栓をして噴火は終わりました。図では、軽石が40センチ降り積もった範囲を黄色で示しています。

前橋・高崎まで達した浅間山の崩壊土砂

いまから2万4300年前に浅間山はすっかり崩れました。湯ノ平を西から取り囲む黒斑山(くろふやま)が崩れ残った山体です。



崩壊した土砂は、吾妻川を下って渋川で利根川に合流したのち、関東平野の北西隅に扇状地を展開しました。前橋と高崎は、その上につくられた都市です。崩壊土砂は、北側だけでなく南側にも流れました。新幹線の佐久平駅はこの土砂の上にあります。

この崩壊土砂の中には、浅間山の心棒をつくっていた特徴的な赤い岩が含まれています。これを赤岩といいます。その赤色と他から際立った形状がひとの信仰心を引きつけるらしく、佐久では「赤岩弁財天」、中之条では「とうけえし」、前橋では「岩神の飛石」、高崎では「聖石」として、それぞれ祭られています。

円錐形の大きな火山がまるごと崩壊するのは、よくあることです。むしろ必然です。

浅間山の裾野は火砕流と土石なだれでできている

浅間山は火山です。山頂火口から測って半径4キロの円内は、だいたい溶岩でできています。これが一般に山として認識される浅間山です。

西と東には山並みが連なっていますが、北と南にはなだらかな裾野が20キロくらいまで続いています。ここが人間活動の場になっています。集落や街もあります。北西角の姥ヶ原を除いて、ここは浅間山から流れてきた火砕流または土石なだれがつくった土地です。

火砕流はマグマが泡だって高速で流れて来る現象です。マグマだから高温です。火口を出るときは1000度、流れ終わったときでも300度以上あります。水と同じように流れ下りますから、平坦な土地をつくります。

土石なだれは、山体がくずれて流れてきたものです。常温ですが、これも高速です。時速100キロ程度です。土石のなかにはとても大きな岩が含まれていますから、それが核となって地表に流れ山がたくさんできます。ちょっと奇妙に思えるかもしれませんが、浅間山の場合は、土石なだれのほうが火砕流より遠くまで達しています。

火砕流か土石なだれか、そして何年前の噴火によるものかで、土地の使われ方が異なります。新しい時代に火砕流におおわれた土地は、表土が不足していますから農地として耕すには適していません。そういった土地は最後まで開墾されずに残り、いまは別荘地として利用されています。
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