風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

追分キャベツを積み上げた石垣

軽井沢の別荘の石垣は、1108年の追分火砕流の中から掘り出されたパン皮岩塊をしばしば利用しています。



これは雲場池の近くの石垣です。見事な粒ぞろいです。浅間山の麓に展開する別荘地の石垣をつくるにまったくふさわしい資材です。火山学者は、このパン皮岩塊を追分キャベツと愛称しています。

青山の浅間石



中之条盆地に「青山の浅間石」なるものがあることは以前から知っていましたが、きょう初めて現物を見ました。国道脇のセキチューの裏にある人家のそばの田んぼの一角にありました。

「このあたりに青山の浅間石というのがあるらしいのですが、知ってますか?」と国道を下校途中の小学女児に尋ねたら、「浅間石ですか。ふん。うちのそばにあります。こっち来て!」と、手招きしたあと、案内してくれました。田んぼ道をしばらく二人並んで歩きましたが、時節柄ひと目が気になりました。

目的地に着いて、浅間石の隣の家のご夫婦に詳しくお話を伺いました。田んぼもその家の所有だそうです。案内してくれた女児は隣の隣の家のお子さんでした。

整った形の流れ山



人工造形物かと思うくらい整った形の流れ山です。手前に池があるのもいい。鎌原土石なだれの上に展開する別荘団地の中でみつけました。

雲仙火砕流災害から15年(その2)

理系白書で有名な毎日新聞の元村有希子記者が、ご自身のブログに「雲仙15年」を書いています。彼女が科学ジャーナリスト大賞を受賞したという一週間ほど前のニュースをきっかけに、彼女のブログの存在を知りました。それ以来、読んでいます。(それ以前のブログ記事は読んでません)

元村記者は、火砕流災害の1ヵ月後に島原で取材した経験をお持ちだそうです。災害報道の教訓は、「阪神大震災、JCOの臨界事故、有珠山の噴火など、その後の災害取材に引き継がれています」と彼女はいいます。しかし、他の二つは知らないけど、有珠山の噴火のときはどうだったかな。私は疑問です。同じ2000年の三宅島のときは、おおいに疑問でした。つまり、マスメディア全体としては、まだあまり変わっていないと思います。教訓はたいして引き継がれていない。

雲仙でみずからをよく反省したのは、毎日新聞とそれから地元のテレビ長崎(FNN)でした。どちらも1年後などの節目に検証記事や検証番組を企画しました。複数の職員を失った点が共通です。

雲仙でのマスコミ取材の問題点は、江川紹子がオウム追求で有名になる前に書いた『大火砕流に消ゆ―雲仙普賢岳・報道陣20名の死が遺したもの』を読むと理解が深まります。これは2004年発売の文庫本ですが、元々は1992年に文藝春秋から単行本として出ました。



もうひとつ。鎌田 慧の『大災害! 』もあります。これは1995年4月の本です。古書なら、いま80円から入手できるそうです。法律によって規制された区域内での取材について、みずからの経験をもとに、論じています。

安易に反省を述べたり、反省を求めたりするだけでなく、江川と鎌田の本をよく読んで、この問題の根の深さをまず知るべきです。そして、どうしたらよいかを社会として選択していくプロセスを経ることが必須だと思います。

雲仙火砕流災害から15年

伝わらなかった火砕流の危険 
不十分だったリスク・コミュニケーション

43人の犠牲者

1991年6月3日16時すぎ、雲仙岳から発生した火砕流に43人が飲み込まれて死亡しました。犠牲になったのは、報道記者とカメラマン、彼らを乗せていたタクシー運転手、それから地域の消防団員などでした。全身にやけどを負ってよろめきながら歩いて逃げてくる人たちの映像が、夕方のテレビニュースで流れました。それは、直視するに耐えない悲惨な映像でした。

私は、この惨事前の一週間、島原に滞在していました。溶岩ドームから繰り返し発生して日ごとに到達距離を伸ばしていた火砕流のリスクをよくわかっていました。あの火砕流に飲み込まれれば死ぬことを知っていました。

火砕流の映像をとるためと火山監視のために大勢の人が入り込んでいた北上木場の「定点」に火砕流が達するのは、時間の問題でした。夜間は無人だろうが、昼間は誰かが「定点」にいるだろう。したがって、「定点」で人が火砕流に飲み込まれる確率は50%程度であろうと、リスク評価していました。

いまでこそ火砕流の恐ろしさは日本国民が共有する知識となりましたが、あのときは火山学者しか知らない知識でした。火山学者は、火砕流のリスクを事前に認知していたのですが、それを社会にうまく伝達することができませんでした。リスク情報を迅速に正しく伝達するためには、伝達する側と受け取る側の双方が十分なコミュニケーション能力をもっている必要があります。あのときは、双方ともが、その能力を欠いていました。

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南東から見た雲仙岳 雲仙岳は島原半島の真ん中にあります。1991年噴火によってできた平成新山(1486メートル)が、普賢岳(1359メートル)を抜いて最高峰になりました。溶岩ドームを取り巻く平滑な崖錐(がいすい)斜面は落石によって生じたものです。その下に、土石流によってつくられた扇状地があります。国土地理院の数値地図50メートルメッシュ(標高)データを用いて、カシミール3Dで作成しました。

溶岩ドームから火砕流へ

雲仙岳は1990年11月に噴煙を上げました。それは1792年の「島原大変肥後迷惑」以来、198年ぶりの噴火でした。

その後の半年間は小さな水蒸気爆発に留まっていましたが、5月20日、山頂に溶岩ドームが出現しました。溶岩ドームは、高温のマグマが地表に届いたことを意味します。このときは、誰もが1792年の新焼溶岩の再来になると思ったようです。

しかし24日、民放テレビ局がその日の朝に撮った溶岩崩落の映像を昼間と夕方のニュースで流しました。これをみて、火山専門家の多くが震撼しました。雲仙岳の過去の噴火では知られていなかった火砕流だったのです。

火砕流は日ごとに到達距離を伸ばしました。26日午前には大きな火砕流が連続発生しました。作業員二人がこれに巻き込まれて腕にやけどを負いました。やけどは死んだも同然。これがよい警鐘になるだろう、以後は近寄らないだろうと私は期待しましたが、現実は逆でした。やけど程度で済むのだから火砕流はたしたことないと人々は思ってしまったのでした。

29日午後にも大きな火砕流が発生して山火事を起こしました。火砕流の高温化は確実に進んでいたのですが、その後は梅雨本番となり、雨が続いて山頂がよく見えない状態で運命の6月3日に至りました。

【“雲仙火砕流災害から15年”の続きを読む】

DとE

大きな噴火を上から順に、A, B, C,・・と呼ぶと、Dに当たる噴火では火砕流の堆積物を確認することができます



上半分が赤く、下半分が青い石質の火砕流です。パン皮スコリアとガラス質の溶岩片がはいっています。基底近くに濃淡の緑色シルトがあって、その中に炭化木が含まれています。4月15日参照

Eに当たる噴火はウグイス色の火山灰を挟むスコリアです。

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基底の朱色粘土が特徴的です。

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姥が原では、クロボクの間に挟まれています。ローム直下の厚い軽石は嬬恋軽石です。

 70cm クロボク
 25cm 再堆積ローム
 25cm E軽石
 25cm クロボク

という層位ですから、Eの年代は、ここだけの観察から、7000年前くらいだと思われます。

DとEの年代は、志賀高原や苗場山におけるアカホヤ火山灰や妙高火山灰などとの層序関係からよくわかっています。Dは5600年前、Eは6800年前です。志賀高原で、Eの下15センチにアカホヤ火山灰があります。ここではアカホヤ火山灰を7300年前と考えます。

平原火砕流は姥が原も覆った

姥が原は、嬬恋軽石とその上に重なるロームとクロボクからできていると思っていましたが、その東半分(およそ小武沢より東側)は平原火砕流に覆われていることがわかりました。



標高1370メートル地点の露頭です。次の層序が確認できます。

 250cm 嬬恋軽石
 110cm カラフル火山灰
      平原火砕流

平原火砕流は南麓のチェリーパークラインに露出するのだから、北麓でも姥が原まで届いていて自然です。

追分火砕流の西端

追分火砕流の西端は東泉沢の右岸に一致すると思っていましたが、ところどころで、左岸の姥が原にあふれ出していることがわかりました。



この高さ1メートルの崖は、追分火砕流の側端崖です。右側のキャベツ畑の土はしっとり黒ですが、左側の段上の土は砂礫をたくさん含む灰色です。

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断面はこのように見えます。追分火砕流に特徴的な青黒色のパン皮スコリアがたくさん含まれていて、炭化木もみつかります。

二度上峠から見た浅間山(5月31日)



浅間山の雪は、まだあります。
手前の木々の葉が大きくなりました。
5月24日と比較してください。

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