風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

日光戦場ヶ原に浅間山Bスコリア上部

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日光白根山1649年火山灰は、従来知られていた湯ノ湖南岸で2センチだけでなく、史料が書くとおり赤沼付近に厚く堆積している。30センチほどだが、分布幅はとても狭い。そして分布軸の延長線上でも、戦場ヶ原の東に接する三本松農場ではみつからない。そこには地表直下まで扇状地の砂礫があって、クロボクがほとんどない。1649年火山灰はここに降ったが、すみやかに浸食されて失われたとみられる。

戦場ヶ原の小高い地形面を覆うクロボクの間には、榛名山から6世紀に飛来した伊香保軽石が20-30センチの厚さで挟まれている。最大粒径10ミリで、登山道側壁のクロボクの中にくっきり白さく露出する。まるで米粒のようだ。

低地では、クロボクを泥炭が置き換える。条件がよいと、伊香保軽石の上に厚さ3センチの砂層を認めることができる。最大粒径は2ミリだ。この砂を顕微鏡の下で観察すると、紫蘇輝石や斜長石などの角張った結晶粒と軽石ガラスからなることがわかる。浅間山から1108年9月26日に噴出した軽石(Bスコリア上部)だ。

伊香保軽石のすぐ下に、渋川火山灰が厚さ3センチでみつかる。最大粒径は1ミリ。顕微鏡の下で観察したところ、黒雲母を含む。結晶粒の角は丸く、表面に黄色が付着している。火山噴火によって空から降った砂ではなく、水流によって周囲の山から運ばれた砂だと思われる。

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湯滝は第三紀の火山岩がつくる山地の尾根にかかっている。5000年前に三岳溶岩ドームが地下から出現して湯ノ湖を堰きとめ、そこに滝がかかるようになった。中禅寺湖から流れ落ちる華厳の滝は、男体山の形成に伴って生じた。2万年前ころだと思われる。滝そのものは男体山から流れ出した溶岩の上にかかっている。竜頭の滝の西にある高山はカコウ岩からなる。

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日光山志にみえる白根山1649年噴火

日光白根山が慶安二年(1649年)に噴火したと、日光山志が書いている。山頂にまつってあった石造りの神社が噴火によって穴の中に崩れ落ちたので、唐銅でつくりなおした。赤沼原(戦場ヶ原)に火山灰が二三尺余(60-90センチ)積もった、という。

絶頂に日光権現を祀れる社あり。ここにてハ白根権現と崇む。社は唐銅にて造れり。承応元年奉納の銘有。此山頂焼出せしハ、慶安二年のことなるに、震動日を経て不止。当山御座主命じ玉ひ、新宮拝殿にて、八講御修行、或は妙典を誦せさせ玉ひける。其時絶頂焼破れ、赤沼原辺ヘ、焼灰二三尺余積り、上州又ハ会津領へも降ける由、焼破れし所、二町許の岩穴となり、深さ何十丈ということをしらず。往昔より勧請ありし石宮も、此時窟中へ陥りけるゆえ、唐銅に造りて奉納すといふ。(日光山志 巻之四)


『日光山志』全五巻。植田孟縉の撰。天保四年(1832)十月の成立。日光山の歴史や故実、そして行事等を詳しく述べている。古くから伝えられる日光山の古記類は、秘記として伝えられていたので、日光山の住侶でさえも容易に見ることができなかった。撰者は、幸いにもある学匠の好意によって、秘籍の大意を説示されたので、それをもとに記録したものである。(神道大系 神社編31日光・二荒山 解題による)

承応元年 1652年
慶安二年 1649年
尺 30センチ
丈 3メートル
町 109メートル


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長秋記の大治四年二月十七日条

長秋記(ちょうしゅうき)は権中納言源師時(もろとき)の日記である。この日記の大治四年二月十七日(1129年3月9日)条の末尾に次のようにある。



増補史料大成16(臨川書店、昭和50年再版)をスキャンした。

「前年に灰砂が上野国に降ったことは紛れもない事実であるが、いまどのような状況にあるかの情報がない。税を免除するかどうかは天皇の裁断を仰ぐべきである」と書いている。これは、浅間山のBと呼ばれる噴火に関係する新しい史料だ。1989年に峰岸純夫さんが初めて論じ、そのあと早田勉さんが粕川テフラの噴火年代にこれを採用した。彼らは、大治四年(1129年)の1年前の大治三年(1128年)に浅間山が噴火したと考えた。

さて、Bと呼ばれる浅間山の噴火堆積物は、Bスコリア下部→追分火砕流→Bスコリア上部からなる。Bスコリア下部は1108年8月29日に前橋に降った。その報告は京都まで上がり、ときの権中納言藤原宗忠が上野国の惨状を中右記に詳しく書いた。その被害は、宮中で軒廊御卜(こんろうみうら)という占いを執り行ったほど中央が注目した大きなものだった。しかし次のBスコリア上部は、前橋にほとんど降らなかった。その分布軸は山間部の沼田に向かう。上野国の中心部は無事だったから、Bスコリア上部による被害が京都に知られることはなかっただろう。

したがって赤線を引いた部分は、1年前の1128年に(Bスコリア上部の)降灰があったことが紛れもない事実であるが、と読むのではなく、21年前の1108年に(Bスコリア下部の)降灰で大被害があったのは紛れもない事実であるが、と読むべきである。ここの前年は、去年ではなく過ぎ去った年の意味だ。もし1128年にも浅間山が大噴火してそれがよく知れ渡っていたのなら、その被害状況や税免除の記録がこれとは別にあるべきである。しかしそのような記述は、長秋記にも中右記にも殿暦にも知られていない。

この新史料を考慮しても、浅間山のBと呼ばれる噴火の推移解釈は変わらない。Bスコリア上部の噴火は1128年ではなく、1108年9月26日からの2週間ほどだった。その期間、中右記と殿暦によると、京都に太鼓のような音が東方から響き、早朝の東の空が甚だしく赤かった。Bスコリア下部と上部の時間差は20年ではなく4週間である。

謝辞:長秋記の読み方を高橋昌明さんと森田悌さんに教えていただきました。
 
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押切端の吾妻火砕流先端

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押切端の牧草地は1108年の追分火砕流の表面です。ここ(地点28)にくると水の流れる音がよく聞こえるのを知っていましたが、それは地蔵川に滝がかかっているからでした。

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この滝は吾妻火砕流がつくっています。1783年8月4日午後、吾妻火砕流が地蔵川に流れ込んで、狭い谷の中を進みました。そのあと地蔵川が、溶結した吾妻火砕流を削り取って滝をつくりました。滝の下からは河床が追分火砕流に変わりますが、左岸にはしばらく吾妻火砕流がつくった低い段丘が続きます。それは50メートルほどで終わります。そこが、ここ地蔵川における吾妻火砕流の先端です。7月に印刷した地質図は、吾妻火砕流のオレンジを地蔵川に沿って250メートルほど伸ばすべきです。

長野原町川原畑の東宮遺跡



熱泥流堆積物の下から天明三年の屋敷が発掘されました。東宮(ひがしみや)遺跡といいます。きょうは現地説明会でした。馬屋や8個の桶が並ぶ離れなど、当時の生活をしのばせる興味深いものを見ることができました。風もなく暖かだったので、大勢のひとが見学に訪れていました。この遺跡の発掘は、来年度も継続するそうです。

遺跡の上にある岩山に掘られた三ツ堂の下まで熱泥流が来たという伝承があるそうです。山道を登ってみると、たしかに熱泥流の堆積物が山肌に貼り付いて地形面をつくっていました(白矢印)。

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遺跡から40メートルほど高いところに段丘があり、家が何軒かあります。これは2万4300年前の塚原土石なだれがつくった堆積面でしょう。2キロ上流の林集落が塚原土石なだれの堆積面の上にあることを確かめてあります。それと同じ面だと思われます。写真は、さらに奥にはいった工事現場です。層序は次の通り。

       カラフル火山灰
90センチ 嬬恋軽石
7センチ カラフル火山灰
80センチ ローム(白糸軽石まじり)
80センチ 塚原土石なだれ
       ローム

時雨忌

きょうは時雨忌(しぐれき)といって、芭蕉が亡くなった日だと朝のテレビがいいました。調べてみると、松尾芭蕉が亡くなったのは元禄七年十月十二日(1694年11月28日)でした。きょう2007年11月21日は、旧暦では十月十二日にあたるので時雨忌だというのです。お盆や正月を旧暦で祝う地域がありますが、それと同じやり方です。

明治五年以前の旧暦時代の記念日を、いま祝う方法をまとめます。

1)旧暦を旧暦で祝う。
きょうテレビで紹介された時雨忌がそうです。旧盆や旧正月もそうです。昔の旧暦の日付は文書に残されてよく知られていますが、いまの旧暦は日常生活でほとんど目にしません。その気になって確認しないとならない煩雑さがこの方法にはあります。

2)旧暦を新暦で祝う。
いまの新暦をつかって記念日を祝うと簡単ですが、旧暦と新暦には1ヵ月余のずれがあります。そのために季節感が違ってしまいます。時雨忌は、じつは新暦で祝われることも多いらしいのですが、10月12日は秋の盛りで秋晴れの日が多くて雨はあまり期待できません。降っても、時雨が意味する晩秋から初秋にかけて降る通り雨とは違います。忠臣蔵を12月14日だと思うと、年末という暦上の季節感はたしかに出ますが、数日前に降った雪が江戸の路地に残る寒さのどん底にはまだ早い。忠臣蔵は元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日)でした。

3)新暦を新暦で祝う。
元禄七年十月十二日は1694年11月28日だったから、時雨忌を11月28日に祝う考えかたです。どちらも太陽暦であるグレゴリオ暦を使っていますから、四季の狂いがありません。芭蕉が好んだ時雨の季節にぴたりです。この方法はたいへん合理的ですが、この合理性が実社会で採用されている例をみつけることができません。

中腹まで雪化粧した浅間山

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224年前に山頂火口から鬼押出し溶岩があふれ出したときの様子を想像するのにちょうどよい具合に浅間山が雪化粧したので、いろんな地点からじっくり観察しました。地質図の表現を少し変更します。

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