風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

自然保護は利己的行為

自然保護という語には内部矛盾が指摘できる。変化するのが自然ほんらいの姿なのに、保護してその変化を止め、自然をひとつところに留めようとしている。これは反自然的だ。

緑を破壊する火山を専門にしていると、このことを強く思う。この考え方を私が初めて知ったのは、町田洋先生が鳶崩れ(富山県)に関連して20年前につぶやくのを聞いたときだ。「美しいものだけが自然ではない。醜いのもまた自然だ」。幸田文も晩年このことに思いを寄せて、「崩れ」を書いた。

昨今の地球温暖化防止対策にも同様の危惧を抱く。地球を操作できると信じるのは人間の傲慢以外のなにものでもない。自然(地球)への畏敬が失われている。学校では、自然への畏敬を道徳で教えることになっている。学習指導要領にある。さて、上手に教えているだろうか。

去年と同じでないと、すぐ異常気象だという風潮も困ったものだ。自然は変化することが本質であることを一般は理解していない。現状を憂える。

諸行無常:仏教の根本主張である三法印の一。世の中の一切のものは常に変化し生滅して、永久不変なものはないということ。


昨今は持続可能という合言葉をよく目にする。しかし、変化しようとする自然を制して同位置に留めようとすることは、けっして自然ではない。それはまったく自分本位で、自然にあらがう行為だ。大いなる自然への畏敬が足りていない。

手入れして里山を維持することで生物多様性が向上するのは認める。里山の居心地の良さは認める。しかし、それは人間にとってのことであって、自然にとってメリットがあるかどうかは疑問だ。それを自然保護だと言うのはおかしい。人間を保護しているだけにすぎない。

自然にとっては、里山や田んぼが広がることはもしかすると迷惑な話かもしれない。人がいじらなくても、そのような環境はかならずどこかに自然に生じて生物多様性は維持されるだろう。

自然保護という美名は、じつはまわりの環境を整えて自分のいごこちをよくしようとする利己的な行為にすぎない。自然や地球を保護しているわけではない。そもそも人間は、自然や地球を保護するだけの力を持っていない。

もちろん、努力して自分のいごこちをよくする行為は非難されるものではない。むしろ努力家だと賞賛されることだ。しかしその行為の動機を自然保護だと掲げるのは偽善だ。素直に自分のためだと認めるのがよい。

FC2Ad