風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

鬼押出し溶岩の上にのる吾妻火砕流


鬼押出し溶岩の上に吾妻火砕流の堆積物を確認しました。鬼押出し溶岩全体を左手と見て、親指と人差し指の股にあたる場所です。標高1730メートル、舞台溶岩の上です。

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拡大写真です。吾妻火砕流に特徴的な丸くてひび割れた赤い岩塊です。
舞台溶岩の上で見つかる吾妻火砕流と同じ岩塊です。

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吾妻火砕流のマトリックス部分は鮮やかな赤色の砂です。この地層が、そのあと前進を継続した内部の鬼押出し溶岩によって戦車のキャタピラのように丸め込まれています。

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鮮やかな赤色の砂の接写。

吾妻火砕流は、1783年8月4日午後に発生しました。したがって、鬼押出し溶岩はそれ以前に流れ始めていたことが確実になりました。鬼押出し溶岩は、8月5日10時の鎌原事件によって1400人が犠牲になったあと、山頂火口からが人知れず流れ下ったと長い間信じられてきましたが、12年ほど前から私は、もっと早くから流れ始めていたに違いないと疑い始めました。

これまでは、鬼押出し溶岩の表面にみつかるスコリアラフト、吾妻火砕流の流れ分け、鎌原土石なだれの構成物質と発生メカニズムなどからそう結論づけていましたが、きょうの現地調査で、その推論が事実だったことを証明できました。

現地調査助手ありがとう、金井智之君。


この場所が鬼押出し溶岩ではなく、それより古いという反論があるかもしれません。南側は鬼押出し溶岩に連続していますが、東側は鬼押出し溶岩に覆われているようにもみえます。

もし1783年より古いとしても、ここは舞台溶岩の上にありますから、1108年より新しい。その間には1596年と思われるA’軽石の噴火がありますから、そのときの溶岩だと考えることができるかにみえます。

しかしその解釈は次のようにして、否定されます。この場所には深さ20メートルほどの大きなクレバスが平行に複数開いています。2万5000分の1地形図にも表現されています。

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深さ20メートルのクレバス(たくさんのうちのひとつ)

このクレバスをつくった引っ張りの力は、この場所の西側にある鬼押出し溶岩主流部が急崖を下り降りることによって発生したと考えるしかありません。西隣の鬼押出し溶岩主流部と無関係にこのクレバス群の成因を説明することは困難です。したがって、この場所も鬼押出し溶岩の一部だということになります。

この説明でもまだ不十分だとお考えの方は、どうぞ禁じ手の化学分析をしてお確かめください(笑)。

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