風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

大きな柳井沼と地下水システムが鎌原土石なだれの原因か

柳井沼の基本地形は、1万5800年前の平原火砕流噴火の直後にできていた。そして、その大きさはいまの北に開いた馬蹄形凹地とほぼ同じくらい大きかったのではないか。

平安時代の1108年8月、追分火砕流がその大きな柳井沼の中に流れ込んだ。この噴火のあと、表面地形としての沼はずっと小さくなったが、浅間山からあふれ出す大量の水は、地下水として元の地表すなわち追分火砕流の堆積物基底をとうとうと流れ続けた。

江戸時代1783年までの675年間、この地下水システムはかろうじて安定を保っていたが、8月5日10時に鬼押出し溶岩の先端で起こった爆発をきっかけに、地下水面より上にあった追分火砕流の堆積物全体がそっくり北側にすべり落ちてしまった。これが、鎌原村を襲った土石なだれになった。つまり、鎌原土石なだれになった土塊の過半は、675年間準安定状態にあった追分火砕流の堆積物だった。

上記の推論(モデル)は、これまで野外で獲得された地質学的事実のどれとも矛盾しないし、いくつかの重要な特徴を説明する。

鎌原土石なだれが残した堆積物の断面には、クロボクやロームがパッチとしてたくさんみつかる。ロームはもちろんクロボクも、追分火砕流の下にあった地層だ。追分火砕流の上のクロボクは、まだ薄く10センチに達しないから、これに該当しない。北へ動き出した土塊が追分火砕流と平原火砕流の境界層(クロボク/ローム)を含んでいたことは間違いない。この境界層そのものがすべり面になったとみるのがもっともらしい。

鎌原土石なだれは「乾いていた」と強調されることがある。堆積物の断面にパッチワーク構造が認められるから確かにそうなのだが、とくに東側の地層断面で、じゃぶじゃぶの水とともに流れた痕跡も認められる。百度で沸騰した泥水の中に生じた小さなパイプ構造がしばしばみつかるのだ。鎌原土石なだれは、場所によってその流れの様式が大きく違っていた。それは、土塊の部分によって含水率が大きく違っていたことに起因すると考えるとうまく説明できる。

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