風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

長秋記の大治四年二月十七日条

長秋記(ちょうしゅうき)は権中納言源師時(もろとき)の日記である。この日記の大治四年二月十七日(1129年3月9日)条の末尾に次のようにある。



増補史料大成16(臨川書店、昭和50年再版)をスキャンした。

「前年に灰砂が上野国に降ったことは紛れもない事実であるが、いまどのような状況にあるかの情報がない。税を免除するかどうかは天皇の裁断を仰ぐべきである」と書いている。これは、浅間山のBと呼ばれる噴火に関係する新しい史料だ。1989年に峰岸純夫さんが初めて論じ、そのあと早田勉さんが粕川テフラの噴火年代にこれを採用した。彼らは、大治四年(1129年)の1年前の大治三年(1128年)に浅間山が噴火したと考えた。

さて、Bと呼ばれる浅間山の噴火堆積物は、Bスコリア下部→追分火砕流→Bスコリア上部からなる。Bスコリア下部は1108年8月29日に前橋に降った。その報告は京都まで上がり、ときの権中納言藤原宗忠が上野国の惨状を中右記に詳しく書いた。その被害は、宮中で軒廊御卜(こんろうみうら)という占いを執り行ったほど中央が注目した大きなものだった。しかし次のBスコリア上部は、前橋にほとんど降らなかった。その分布軸は山間部の沼田に向かう。上野国の中心部は無事だったから、Bスコリア上部による被害が京都に知られることはなかっただろう。

したがって赤線を引いた部分は、1年前の1128年に(Bスコリア上部の)降灰があったことが紛れもない事実であるが、と読むのではなく、21年前の1108年に(Bスコリア下部の)降灰で大被害があったのは紛れもない事実であるが、と読むべきである。ここの前年は、去年ではなく過ぎ去った年の意味だ。もし1128年にも浅間山が大噴火してそれがよく知れ渡っていたのなら、その被害状況や税免除の記録がこれとは別にあるべきである。しかしそのような記述は、長秋記にも中右記にも殿暦にも知られていない。

この新史料を考慮しても、浅間山のBと呼ばれる噴火の推移解釈は変わらない。Bスコリア上部の噴火は1128年ではなく、1108年9月26日からの2週間ほどだった。その期間、中右記と殿暦によると、京都に太鼓のような音が東方から響き、早朝の東の空が甚だしく赤かった。Bスコリア下部と上部の時間差は20年ではなく4週間である。

謝辞:長秋記の読み方を高橋昌明さんと森田悌さんに教えていただきました。
 

峰岸純夫さんと早田勉さんがしたように前年を去年と解する場合、前年は大治三年(1128年)ではなく大治二年(1127年)に当たる。大治四年二月十七日に京都が取り上げた上野国からの税免除願いは、大治三年分だからである。前年に灰が降ったのは確かだが大治三年の状況はわからない、と書いている。(この項は、森田悌さんの教示による。)

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