風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

千曲市屋代遺跡の平安砂層

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千曲市の屋代遺跡群地之目(じのめ)遺跡の壁面に露出した平安砂層。2009年4月28日撮影。遺跡は、この砂層が埋めた水田面を発掘している。888年6月20日に千曲川を下った大洪水が残した地層であることが、類聚三代格の仁和四年五月二八日条の記述からわかる。


観察
・平安砂層の厚さは0.5~1.8メートル。水田を埋めている。
・水田は泥。そのうえに砂層がのる。下部には重い鉱物や石が集まっていて成層している。中部と上部には、軽石などの軽い粒子が集まっている。
・平安砂層の上には、やや腐植が集積した暗色シルトがあって、その上に(近現代の)水田土壌がのる。暗色シルトはアシ原か畑ではないかと思った。洪水のあとすぐに水田を復活することはなかったようだ。

考察
軽石はよく円磨されている。軽石は目立つがそれ以外の石もまじっている。浅間山の1万5800年前の平原火砕流の堆積物由来だと思われる。懐古園あたりをつくっていた軽石だろう。
 砂層のなかに1センチを超える粒子はほとんどない。とくに河原石はまったくない。薄い洪水流だと思われる。湖の決壊モデルがもっとも説明しやすい。したがって、八ヶ岳天狗の崩壊土砂が千曲川を上流でせき止めたとする説がもっともありそうだ。887年8月の地震で懐古園あたりが崩れて佐久平に堰止湖ができて、それが888年6月に決壊するのでは、土砂規模からいって無理だろう。

結論
887年8月22日東海地震による八ヶ岳天狗崩壊、湖形成、888年6月20日決壊の石橋モデルで説明するのがもっとも説得力がある。平安砂層全体に軽石がとくに多いわけではない。この遺跡のこの部分でたまたま軽石が多かった。軽石は浅間平原火砕流由来。

類聚三代格仁和四年五月二八日条
重今月八日信濃国山頽河溢、唐突六郡、城廬払地而流漂、戸口随波而没溺、百姓何「事」辜、頻罹此禍、徒発《疚》{ヤム}首之歎、宜降授手之恩、故分遣使者、就存慰撫、宜詳加実覈、勤施優恤、其被災尤甚者、勿輸今年租調、所在開倉賑貮、給其生業、若有屍骸未斂者、官為埋葬、播此洪沢之美、協朕納隍之心、主者施行、

高橋昌明さんによる現代語訳
重ねて今月八日信濃国の山が崩(頽)れ河が溢れた。 六郡に突発した。町(城)も田中の仮屋(廬)もすべて流され漂った。人民は波のままに没し溺れた。一般民衆は何事ぞとしきりにこの禍を憂(罹)え、いたずらに疚首の嘆きが起こった。よろしく援助の恩を下すべきである。故に使者を分かち派遣し、ことにあたっては慰めいたわりの心を思い、宜しく詳しく実情を調査すべきである。せっせと手厚い恵み(優恤)を施し、被災の最も甚しい者には、今年の地方や国の税を課してはならない。ここかしこ(所在)で倉庫(倉)を開き財をにぎわせ、その生業に給え。もし死骸があっていまだに葬っていなければ、官が埋葬をなせ。この大きな恩沢(洪沢)の麗(美)しきを施(播)し、朕の苦しむ(隍納)心にかなうようにせよ。責任者(主者)は施行せよ


類聚三代格が書く災害内容
仁和四年五月八日(ユリウス暦888年6月20日)、山崩れによって千曲川で洪水が発生した。広い範囲で住居が流されて、人が溺れた。埋葬が間に合わないほど多数の死者が出た。

研究史
・1947年5月8日 今村明恒 善光寺地震百年忌記念講演会
 善光寺地震(1847年)の約1000年前、887年に信濃北部地震があったとした。
・1965年 鷹野一弥 信濃17、726-731
 大月川泥流地帯にみられる湖沼群の成因を、天狗岳の崩壊土砂によるせき止めに求め、類聚三代格によってそれは仁和四年五月八日(888.6.20)だったと考えた。
・1982年 河内晋平 日本科学者会議北海道支部ニュース
・1983年3月 河内晋平 地質学雑誌173-182
・1994年12月 河内晋平 信州大学教育学部紀要171-183
・1995年3月 河内晋平 信州大学教育学部紀要117-125
 仁和四年五月八日に八ヶ岳で水蒸気爆発が起こって、大月川岩屑流が発生したと考えた。そして、前年の仁和三年七月三十日(887.8.22)の信濃北部地震は、扶桑略記に誤記があることに気づかないで認識したものであり、その地震は存在しないと指摘して注目された。ただし、扶桑略記のその誤記については鷹野が1965年にすでに書いていた。誤記というより、むしろ日付の間違いと言うべきである。
・1997年3月30日 早川由紀夫 ホームページ
 八ヶ岳が気象庁活火山から漏れていることを指摘した上で、類聚三代格に書かれた仁和四年五月八日信濃の地変が、地震も水蒸気爆発もなく起こるだろうかと疑問を述べた。
・1999年8月 石橋克彦 地学雑誌108-4
 仁和三年七月三十日(887.8.22)の東海地震で八ヶ岳天狗が崩れ、土砂が千曲川をせき止めて湖が生じた。その湖は、翌年梅雨時の五月八日(888.6.20)に決壊して洪水を引き起こした、とする新説を発表した。
・1999年12月18日 朝日新聞夕刊大阪社会面 八ヶ岳崩落は887年
・1999年12月23日 朝日新聞長野東北信 八ヶ岳の大崩壊は887年
 光谷拓実がヒノキの年輪幅を測って「最終形成年は887年」と結論した。「秋口まで成長していた」とも述べた。
・2000年3月27日 朝日新聞長野東北信 定年飾る、年代割り出し、八ヶ岳大崩壊を実証した河内・信大教授
 光谷年輪年代学による結果を得た河内が、八ヶ岳の水蒸気爆発と崩壊が887年ではなく888年だとする自らの主張を変更したかどうかの記述は、この記事中にない。河内はこのあとまもなく、2001年7月に急死した。
・2001年6月 光谷拓実 日本の美術421 年輪年代法と文化財
 八ヶ岳崩壊だけでなく千曲川の平安砂層も887年に生じたと考えて、扶桑略記の記述が正しいとした。

コメント

4月下旬に砂層を見て、洪水にしては堆積層が厚く驚きました。現場で先生の説明を聞き、ブログを読ませていただいて納得している次第です。仁和四年の古文書も掲載してあり、授業の教材としても使えそうです。ありがとうございました。

小海の天然ダム

小海の住民です。最近、八ヶ岳天狗岳崩壊と大海、小海の形成に関心を持って調べてみましたら、自分の住んでいる場所がまさに相木川を閉塞したダムだったことに気づきました。ブログ1月12-14日に記事を載せておきましたのでごらんくだされば幸いです。

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