風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

浅間山1783年噴火の最近研究レビュー

安井・小屋口(1998、日大紀要)は、吾妻火砕流の主要部分が8月4日夕刻から始まったクライマックスのあとに流出したと考えた。前掛山の山腹に露出する軽石の最上部に複数の火砕流堆積物が挟まれていることを根拠にした。安井真也さんはいまもこう考えているのだろうか。その場合、8月4日午後に六里ヶ原へぬっと押し広がって樹木を焼いたと書く古記録をどう扱うのか。

古記録では、吾妻火砕流が8月4日午後で、軽石噴出のクライマックスがその夕刻から翌日未明までだったと読める。これは荒牧さんの時代から知られていた。それなのに、軽石→火砕流の順番が頑なに信じられてきた。その理由は何か。古記録より野外での層序を優先した結果だろうか。

峰の茶屋の東大火山観測所構内に露出する軽石の中央部とそのすぐ下にオレンジ色の火山灰が3、4枚挟まれている。それらが吾妻火砕流から噴き上がった灰かぐらが風下のここに降り積もったものだと初めて解釈したのは、たぶん私だ。軽石の上半分が8月4日夕刻から始まったクライマックスの堆積物だから、この解釈は古記録の記述とよく合致する。


安井・小屋口(2004、BullVolc)は、鬼押出し溶岩が8月4日のクライマックス15時間で流れたと考えた。その高噴出率1000トン/sと地層の野外観察から、火口の上に勢いよく噴き上がってから地表に落下したマグマのしぶきが溶岩をつくったと考えた。

しかし、その解釈は間違っていると私は思う。鬼押出し溶岩は、8月2日には北山腹に出現していた。その流出にかかった時間は60時間だった。彼らが見積もった噴出率の1/4ですむ。また彼らが野外で観察した対象は、溶岩の上を覆った吾妻火砕流や溶岩が上に載せて運んだ釜山スコリア丘の残がいも含んでいたともみられる。

金沢大学文学部の学生だった井上素子さんが鬼押出し溶岩の上を広く歩いて、これは溶岩ではなく火砕流だと結論したらしい。1996年頃のことだったと思う。荒牧さんが現地で彼女に説明を受けて同意したと、人づてに聞いた。そのあと、高橋正樹さんが上の舞台も溶岩でなく火砕流だと火山学会で講演したと記憶する。どちらも、論文としてはまだ発表されていないようだ。鬼押出し溶岩や上の舞台溶岩は典型的な安山岩の溶岩流だ。彼らは、おそらく溶岩の上を覆った吾妻火砕流や溶岩が上に載せて運んだ釜山スコリア丘の残がいを観察して誤った結論を導き出したのだろう。

鎌原土石なだれが山頂ではなく山腹の柳井沼から発生したアイデアを最初に発表したのは、井上公夫さんだ。彼は、柳井沼からの側噴火を考えた。このアイデアに感化された私が、鬼押出し溶岩の先端が爆発したモデルを提出した。鬼押出し溶岩が8月2日から流れ下っていただろうとそのときすでに気づいていたから、そう考えることに抵抗はなかった。むしろ、そう考えることによって、吾妻火砕流の分布や鎌原土石なだれの不思議を一挙に解決できることに魅力を感じた。

吾妻火砕流の分布の不思議とは、鬼押出し溶岩を避けるかのように東西二手に分かれて分布していること。火山博物館駐車場に隣接したスキー場跡のなだらかな斜面に吾妻火砕流が分布しない。そこでは、鎌原熱雲の下に天明の地表がいきなり露出する。鎌原土石なだれの不思議とは、あの大きな黒岩の存在である。あの奇妙な岩はいったい何か。

私が提出したモデルでは、吾妻火砕流は流下中の鬼押出し溶岩の高まりに行く手を妨げられて東西二手に分かれた。鎌原土石なだれの中の黒岩は鬼押出し溶岩そのものだと解釈できる。

・軽石や火山灰が降った日時の研究レビューは「1783年(天明三年)軽石噴火の日付」をご覧ください。
・20世紀中頃の研究レビューは「八木地質図と荒牧地質図」をご覧ください。

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