風景に書き込まれた歴史を読み解く

The Story Behind the Scenery

火砕流の流れ分け

吾妻火砕流が東西に流れ分けている事実は、それより先に鬼押出し溶岩が火口からもう流れ始めていたと考える強力な根拠となります。

同様のことを、追分火砕流についても考えています。追分火砕流は鎌原土石なだれの下にほとんどみつかりません。追分火砕流も、真北を避けて、東西に流れ分けたようにみえます。東に向かった流れは北軽井沢に、西へ向かった流れは大笹に達しましたが、その間に挟まれた鎌原や三原に追分火砕流はありません。平原火砕流や塚原土石なだれは、鎌原土石なだれの下にみつかります。追分火砕流が流れ下るとき、舞台溶岩が流下中で障壁になったのでしょうか。それとも、火山博物館のそばのいまは窪地になっている場所に小山があったのでしょうか。

鬼押出し溶岩の先端近くの藤原には、幅200メートル、長さ1200メートルの奇妙な曲がりくねった溝があります。追分火砕流の上に掘られているようです。

平原火砕流と塚原土石なだれは、北麓に一様に展開しています。行く手を障壁に阻まれたようにはみえません。

1783年噴火の直前の地形を知るためには、追分火砕流の分布を詳細に調べることが役に立つだろうと思われます。平安時代に追分火砕流が柳井沼を埋め立てなかった理由を解明する必要があります。


高羽根沢は鎌原土石なだれが通過した真ん中を南から北に流れていますが、大前駅で吾妻川に注ぐ地点を除いて、追分火砕流が流入した形跡がありません。

「奇妙な曲がりくねった溝」は、柳井沼から発していた水路のあとだと思われます。洪水がしばしば発生したらしく、この地域の追分火砕流の表面はラハールの堆積物で覆われています。

1783年に、鬼押出し溶岩は柳井沼を目指して北に流れ下ったようです。そして8月5日11時に何らかの理由で東側面が土砂崩壊して馬蹄形凹地が生じました。この急激な地形変化によって、鬼押出し溶岩の高温内部が大量に露出して、そこから熱雲が発生しました。それと同時に、黒岩を交えた大量の土石が北に高速で下ったと考えられます。

(4月16日加筆)

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